「支那と佛蘭西との喧嘩」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那と佛蘭西との喧嘩」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那と佛蘭西との喧嘩

安南事件に關し支那と佛蘭西との葛藤は本年三四月の頃より漸く世人の注意を喚起し東西人の眼睛は其焦点北京上海の使臣會合談判に巴里の問答に東京の戰争に彼に此に集合して其結果如何を待ちたる甲斐もなく明治十六年も將さに暮んとする今日に至るまで和戰如何の〓〓未た我々の耳朶に達するものなきは實に我々が豫期外の事相なりと云はざるを得ず

抑も此葛藤の原因は何れに在るやと問うに近年佛蘭西が大に其勢力を安南地方に振ひ其所領サイゴン一帶の地を根據として漸く其隣境に迫り千八百七十四年に安南國と條約を結びて同國を佛蘭西共和國の保護國と爲し尚ほ進みて支那の雲貴両廣諸省に近接する東京地方を略取するの方略を實行し紅河の三角地海岸の各要衝には既に其地歩を固くするを得たるを以て更に河流を溯りて雲南に入るの路を開かんとして遠征軍を派遣し土族黒旗兵等と相交戰するに至るに及びて支那政府は大に自から懼るる所を知り先つ軍兵を雲貴の南境に屯在せしめて佛軍北上の路を扼し同時に安南爲中國所屬之邦の議論を提出して佛國人が猥りに他國の領地を侵略するを責め唇の未た亡びざるに及びて齒の寒からざらんことの用意に汲々たりしなり其結果は北京にて佛國ブーリー公使との談判と爲り巴里にて曾紀澤公使の詰難討論と爲り上海にて李鴻章とトリクー公使との會合となり今日又巴里倫敦に於て曾公使の周旋應答となりたるなりこれを簡略に云へば今回の葛藤に關し佛國は被告の地位に立ちて支那は原告の地位に立つものなり支那は働き掛けの地位に在りて佛國は受け身の地位に在るものなり故に支那にして後へに退かんか此葛藤は即坐に氷解すべく前に進まんか佛國は兵力を以てこれに抗し一戰直ちに其曲直を决斷するか或は謹て支那の命令を聽き旗を卷きて西に歸るか二者其一に居らざるべからず事局の落着甚た速かなりと云ふべし然るに支那政府の擧動の緩慢なる進むが如く退くが如く到底兵力に訴へて曲直を斷せんとの决心あるが如く又なきが如く我々傍觀人には其意中毫も窺ひ知るべからず思ふに當局の佛國人と雖とも其對敵の意中を測り得ざるの一事は我々に比して格別の相違なかるべきか又顧みて佛國政府の擧動を見るも十分の定見ありて東京侵略に從事するものの如くにも思はれざる意味なきにあらず是等は歐洲内部の政略に忙はしく左右を顧盻して安心の地位を見出さざる折柄國會の議論民心の趣向も分明ならずして政府の當局者も自然躊躇因循に日を消すること多きがためなるべし然れとも佛國政府は敵に對して尚ほ能く其地位を維持し曾公使の辨難論詰の如きは馬耳東風聞かざる真似を爲して毫も省する所なく或は三千なり六千なり時々援軍を派遣して紅河沿岸の要衝を扼守し唯其進歩こそさまで急速ならざれ一歩々々前に進行して更に退去せんとするの形跡なきなり畢竟するに佛國政府は支那政府の百難千詰も其實は全くの虚喝なることを〓見してこれを意に介せず唯成るべく節儉なる方法によりて東京一帶の地を奪掠せんとするの意か將た支那にして能く來らば直ちに戰塙に相見るべしとの意にて東京地方の兵略よりも他に大に心を用る所ありて然るものか未た詳かならずと雖とも兎に角に佛國が進みて取らんとするの决意あるは其形跡上掩ふ可らざることなり斯る事實なるにも拘はらず一旦其後より袂を扣へたる支那にしてこれを難すこともなさず前に廻はりて拳を上ぐることもなさず徒らに口舌を以て唖聾の人と問答し一年三百六十日曾て倦むことを知らざるが如きは實に不思議の擧動なりと評せざるを得ず我輩は今十返舎一九翁の妙文一節を道中膝栗毛第六篇彌次喜多上方見物の條より借用し清佛葛藤の現况を形容すること左の如し

(彌次)むしやうに人がかけるは何だ、イヤ向ふに何かあるそうですさまじい人だ、モシモシ何でございやすね(向より來る人)あこにゑらいいさかひがあるわいの(北八)京の喧嘩も珍らしからうト足早に行て見るに見物山の如く往來もならぬ位ひなるに二人は人を押分け押分けこれを見れば彼の喧嘩の一人は肴屋と見えてそこに半〓などおろしてあり相手は職人体の男いづれも屈強の若者なりされど都は人の心もゆうちやうにして喧嘩と見ゆれどさのみ頭からたたき合ひもせず日當りのよき所に二人向ひ合ひて(肴屋)コレイノわがみの方から行當りくさつてそないなこといふもんじやないわい、己れ腦てんどやいてこまそかい(相手職人)おきくされ、こなんが手の動くのにこちやじつとして居やせんわいト云ひつつ手拭を丁寧に折て鉢巻をする(肴屋)ようおとがひならすわろじやな、一体わりや何所のもんじやい(職人)おれかい、おりや堀川姉ヶ小路下ル所じやわい(肴屋)名は何と云ふぞい(職人)喜兵衛と云ふわい(肴屋)年はいくつじや(職人)廿四じやわい(肴屋)おきくされ、己れ廿四にしちやゑらい若い、虚言つきくさるな(職人)なにいふぞい、ほんまじやわい、前厄で今年嚊めを死なしたわい(肴屋)そりやゑらい力落しおつたじやあろ、ゑいきみさらしたな(職人)イヤそればかりじやない、乳呑みくさるがきめがあるさかいゑらい難義な目に逢ふたわい(肴屋)そじやあろわい、おりやわれに二ツ上じやわい(職人)そうぬかしくさりやわれも若い、内は何所じやぞい(肴屋)一條猪熊通り東へ入る所じやわい(職人)かいやい、あこに目くらで目の見えん寸伯と云ふ針醫があろがな(肴屋)オオ針醫がありやどうすりや(職人)イヤこちの一家じやさいかい、己れ歸くさるなら言傳してこまそ(肴屋)いやじやわい、何のわれが言傳誰が云はうぞい、ゑらいあほめじやな(見物の人欠しながら)十兵衛さんもういのかい(十兵衛)待んせ今に打合うじやあろ(見物)イヤわしや内に客ほつておいて來たさかい(十兵衛)そしたら其お客連れてごんせ、序に薄縁など一枚くさんせんかい」又こちらの方に居る見物軒下につくばい髭をぬきぬき(詞)見なされ、あつちやのわろがどうしてもゑらいやつじやわいな(見物)イヤこつちやの男もゑらい頤じやわい(見物)ホンニ其頤で思ひ出したお家はどうじやいな、痛所はゑいかいな(見物)ハイおかたじけなう御座り升、とんとゑいやうであつたがな昨日からゑらう惡くなつてツイ夕べ死にましたわいな(見物)ソリヤお前ご愁傷であろ、ご葬禮はいつじやいな(見物)今に出し居り升とこじやあつたが、ゑらい喧嘩があると人が走るさかい、わしもツイ行て見て戻るほどに夫迄待つてと云つて待たして置きましたわいなト各氣の長い者ばかりいういうとして見物して居ると彼の(職人の男)コリヤヤイまちとこちへ寄りくされ、日向がなうなつて寒なつたさかい(肴屋)オオ寄つたがどうすりや(職人)己れ今己れがことをあほじやとぬかしておつたが何で己れがあほじやぞい(肴屋)あほじやさかいあほじやわい(職人)何ぬかしくさる、そう云ふわれがあほじやわい(肴屋)イヤこちやあほじやない賢じやわい(職人)われが賢なりや己れも賢いわい(肴屋)オオわれも賢いか、そしたら此喧嘩やめにせうかい(職人)サアひよつと互にせり合ひて着物でも引裂いたら損じやさかい、やめにしてこまさうかい(肴屋)ゑらい遅なつた、もういんでこます(職人)己れもそれがいにくさる道じや程に連立ていんでくりよわい、今日はゑい天氣じやつたな(肴屋)暖うてゑいわいやいト互に挨拶して此二人連立ちて歸る云々

此文章は今より八十年前に在て上方人の喧嘩を形容したるものにして固より今日に其實例をみるべきにあらず况やこれを取て十九世紀の最文明國人が片相手たる清佛の葛藤を形容せんとするは甚だ難事なること無論なりと雖とも兎角に目下の現况我輩をして膝栗毛の六篇目を思ひ出さしめざらんとするも能はざるなり或は云ふ支那政府は到底兵力に訴るの决意ありと雖とも今日まで未た何等果斷の所置なきは一旦開戰を布告するに至れば今日の佛國政府は東京雲貴地方の小利害を爭ひ蒲鞭を擧けて大象の臀邊を叩くが如き拙策を襲用する者にあらず必ずや直ちに天津に飛來して北京の象頭を攻擊するなるべく左すれば冬時天津河口の氷合して軍艦の駛入を許さざる日に至らざれば安心ならずとて只管天津の閉河を待ち居るが故なりと此説甚た面白し果して左樣の軍略ならんには天津の河口も今日頃は最早氷合の時季なるが故に清廷宣戰の報知近日我々の耳朶に達することあるべきや我輩は决してこれを保証すること能はざるなり知らず支那政府は此葛藤を如何に所置せんと欲するにや