「只管西洋の文を學ぶ可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「只管西洋の文を學ぶ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

只管西洋の文を學ぶ可し

言語相通せず文書相解せざる者は相互に交る可らずと云へば誠に簡單明白なる確言にして又た爭ふ可らざるが如くなれとも此の簡單明白なるものが往々世人の注意を逃れて確言の行はれざるは我輩の常に遺憾とする所なり其は何事と尋るに我日本國に西洋の文を講じ西洋の言語を學ふの敎育甚た寥々たるの一事にして三十年前開國の時より洋學の敎育次第に盛にして殊に明治維新の初には一段の流行を增したるが如くなれとも西洋學と云へば世人の目には一種の専門科の如くに見え唯橫文を讀むを以て學問と心得るか故に其敎育の區域自から廣大なるを得ず譬へば數十年前まで漢學流行の世に於ても漢文を讀むは一種の學問として世に認めたるが故に彼の寺子屋にて習字の傍に用文章又は實語敎等を學ぶ者に比すれば區域甚た狭かりしが如し即ち〓に在て用文章實語敎等は普通學の位を占め〓〓〓〓〓〓一〓〓〓〓〓〓るに過きず之を今日の〓〓に〓れば西洋學〓〓〓〓に専門科の一種の如くに講〓〓〓〓〓〓學ぶ〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓爲に〓ふ可〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓男女貴賤を問はず多少の所得あらしめんことを願ふものなれとも若しも此事にして容易に實施し難きことならば良しや學問の一種としても中人以上の子弟には西洋の文書を讀まして其言語を習はしむるは今の時勢に缺くべからざるの急要なりと信ず世の論者或は謂らく西洋の文書言語を學ぶは頗る勞力を費すことなれば文書には翻譯書を讀み言語には通辨を用て不自由なかる可しとの説もあれとも是れは畢竟外國交際の緩慢なる時節に行はる可き考にして今後の時勢は决して然るを得ず開國外交は我が國是にして此一主義丈けは今日如何なる説を作り如何なる力を用るも動かす可らざるものなり而して其外交の相手たる西洋諸國の有樣は今日如何にして今後如何なる可きやと尋るに其文明は運輸交通の道と共に進歩して到る處に際限ある可らず我れより進て彼れに近つくことなきも彼れより來て我れに接し交際の事項は政治に商賣に工業に學問に日一日よりも繁多を致して東洋西洋両國の人民雑居の日は遠きにあらざる可し我輩が曾て時事新報の紙面にも記したるが如く日本に銕道を敷設して東西南北の交通便利なるに至れば此便利は獨り我國人のみにて専にするを得ず外國の人も共に之を利用す可きことなれば銕道敷設の一擧のみにても既に内外人民の相互に近接して交際の繁多なる可き結果は明に前知す可し内外の人民雑居して交際は次第に忙はしき其時に當て相互に其言語を解せず其文書を知らずして實事に妨げなかる可き歟政治上の交際、學問情の議論より商工貿易の事に關して内外の人民相互に軒を並べ面を接しながら人類交際の媒介たる言語文書は相互に通することなしとは不都合の甚しきものならずや今日の外交淋しき時節なればこそ社會上流の人にても洋語に通せず洋書を讀まずと云ふも事實に大なる妨も少なく世間にも之を許して其無學を嗤ふ者もなきことなれとも試に人事進歩の勢を測量して十數年後の日本を想像したらば如何なる可きや其時に當て洋文洋語を知らざる者は今の日本にて漢字を知らず時文を解せずして新聞紙さへ讀むこと能はずと云ふ者に等しかる可し明治十六年に日本文の新聞紙をも讀み得ざるが如き人物は中人以上に齒す可らずして世間に体面なきのみならず往々事實の利益を失ふことも多し左れば明治何十年の後に於て外國發兌の著書新聞紙を讀むに苦み外國人に面接するも無言にて相對すると云ふが如き者は固より社會下流の人物にして名刺の區域内に入るを得ず官途に在て貴重の地位に立つ可らざる〓無論末々の小〓たるに〓〓〓〓〓〓在〓〓〓〓〓〓の〓〓手代として〓〓〓なしたるの〓〓〓〓〓〓〓〓又〓〓容る可〓ず〓〓〓大〓〓〓〓〓〓の〓〓にて〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓大〓〓〓〓〓文に〓〓〓〓〓〓〓〓〓往復の公書にも佛文をして用ひ各國人民集會の席にも佛論を用ひ或いは佛蘭西〓〓〓にて學者が〓〓するに自國の語を捨てて佛文に作る者あり盖し佛蘭西は歐洲の大國〓文明の中心にして之に接近する諸國の人は佛蘭西と文明を共にするが故に其上流文明の人は佛人と言語文書を同うするを勉ることならん然ば則ち今の日本國人は西洋諸國と文明を共にせんと欲する者なり其文明を共にせんと欲すれば其言語文書にも通して恰も同文の國の如くならんことを勉む可きは誠に當然のことにして理由の最も明白なるものなれば苟も今日の後進生にして他日社會の表面にたち中人以上の地位を占めんと欲する者は左右を顧みず唯西洋の橫文を學びて時勢と共に進歩を輿にす可きなり實は明治の初年より學問奨勵の沙汰は聞たしとも國中に洋文を講じ又洋語を學ぶの方便甚た少なきのみならず甚しきは西洋の文事人事を知るには翻譯の書を讀て足る可しと云ひ尚甚しきは支那文を學び支那の經義を講するを先なりと稱して殊更に洋學を怠る者なきに非ず我文明社會の一大缺典なりと云ふ可し今日にても都鄙に洋學者の乏しきが爲に世論の品格自から高尚ならず又政事人事の實施に於ても差支の筋少なからざるは識者の窃に憂る所なるに今この憂を除くを謀らずして却て之を增すが如きは我輩の更に大に憂る所のものなり