「私立學校廢す可らず」
このページについて
時事新報に掲載された「私立學校廢す可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今囘改正徴兵令の發行に就ては、官立府縣立の學校には其生徒に徴集猶豫の特典を與へ、私立學校には之を許
さず。此有樣にては私學の稍や高尚なるものは迚も維持保存の道ある可らずとの事は、過般の時事新報に之を論
じたり( 一月十八日十九日時事新報)。蓋し徴兵令は天下の大法にして、其精神は全國兵に在るものなれば、日本
國中の男子、一名も之に洩るゝなきを期する其中にも、特に學校の生徒に限りて特典を授けらるゝは、武を擴張
するの傍に又文を重んずるの深意、明に見る可し。扨其文は如何なる文と申すに、天下の文育は文部卿の統攝す
る所にして、其學校に官私の別なく、文部卿の監督に洩るゝものある可らざれば、私立諸學校の性質を吟味し、
其學科の高卑を調査して、官立府縣立の學校に等しきものへは、同樣の特典を授けらるゝも妨げなきことならん
尚是にても不安心ならば、現に文部卿より學者を派出して私學生徒の試驗に立合ふも可なり、或は直に其手にて
試験するも可なり。畢竟官私學生に徴集の期を猶豫するも、其學力を測り成業の見込ある廉を以てすることなれ
ば、其學力の優劣さへ分明なる以上は、他に問ふ可きものある可らず。例へば去年十月二十三日第三十五號醫師
免許規則竝に第三十四號醫術開業試驗規則の布告に於ても、内務卿は天下の醫學生に開業を許すに只學力の優劣
を試驗するのみにして、其學生が官立府縣立の醫學校に學びたる者か又は他の私立醫學校に學びたる者かを問は
ず。蓋し本來醫の學問に於て官私の別ある可らざればなり。又其試驗の法に於ても、醫術開業試驗規則の第三條
に、
内務卿は醫術開業試驗ヲ擧行スル毎二官立及ビ府縣立醫學校病院二從事スル者又は地方二於テ學術名望ア
ル醫師理化學者等ヲ選ビ試驗委員ヲ命ズ可シ云々
とあり。されば今徴兵令第十九條、官立府縣立學校に於て修業一箇年以上の課程を卒りたる生徒は六箇年以内徴
集を猶豫し、又其第十一條、官立府縣立學校の卒業證書を所持し服役中食料被服の費用を自辨する者は願に因り
一箇年間陸軍現役に服せしむるの法も)、唯其生徒の學力を測りて特典を與るものより外ならざるが故に、此生徒
を見ること内務卿が醫學生徒を見ると同樣にして、學問上の力量に不安心の廉あらざれば他に問ふ可きものなか
る可しと信ず。反其學力を測るにも、醫術開業試驗規則には地方に於て學術名望ある醫師理化學者を選ぶの法も
あれば、尋常私立學校に於ても其生徒の學力を試驗するに、政府に於ては時宜に依り其學校長なる者が地方に於
て學問の名望ある人物ならば之を選ぶも妨なきことならん。醫學生徒に開業を免許するは甚だ重きことなり。尋
*二行読めず
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓ろ醫學生の開業を重しと云はざるを得ず。此重き開業を免許するに。内務卿は唯醫
學生の學力を試驗するのみにして其學生の出處を問はず、官立府縣立醫學校に學びたる者にても私立醫學校に學
びたる者にでも曾て區を爲さずして、其試驗を司どる者さへ官私を問はず地方にて學術の名望ある人物を選ぶ
ことあり。學問の名に拘はらずして其實を重んずるものより外ならず。若しも内務卿が、醫學に就き、其學術の
官と私とを分別して、強ひて其名義を重んずるの深意あらんには、凡そ天下の醫學生たる者は官立府縣立の醫學
校に學びたる者に非ざれば開業の特典を與へず、又これを試驗するにも必ず官立及び府縣立醫學校病院に從事す
る者のみに限りて、地方に如何なる學術名望者あるも、苟も私に屬する者は試驗の任に當るべからずと命令す可
き筈なれども、今其然らざるは何ぞや。其精神の所在、言はずして明かなり。而して此醫事規則に於て學問の實
を重んずるは、必ずしも内務省に限りて内務卿一個の意に非ず、政府全體、右文の氣風を表出するものなれば、
我輩が今囘徴兵令に關して私立學校の爲めに熱心冀望する所のものも、必ず空しからざるを信じて疑はざるもの
なり。言重複に似たれども、拙論の要點を云へば、敎育令は日本國中學術敎育の方法を示すものにして、徴兵令
は日本國中軍事服役の法を示すものなり。等しく至大至重の法律にして、其明文に揭げたる箇條は一として實際
に行はれざる所のものある可らず。果して然るときは、敎育令には、日本國中の學校、官私の別なく等しく文部
卿の統理内に在るが故に、官と云ふも私と云ふも唯其校費の出處を異にするのみにして、學問の吉に區別はある
可らず。且又政府にて學校の官私を間はず唯學問の實を重んじて之を標準にせらるゝの趣意は、既に内務省の醫
事規則にても分明に窺見る可き程のことなるに、徴兵令に於ては官立府縣立學校と私立學校との間に非常なる差
別を示して、私立學校は殆ど文部卿の監督外に在るもの歟と疑はるゝ程の始末なれば、是れは必ず政府にて別に
所見ありて、大法は大法にして一般に布告し終り、其細則に至ては自から醫事規則に於けると同樣、學問の實に
就て何か取捨せらるゝ所のものある可しと、今日より之を豫期するのみ。 〔二月七日〕