「外國の事態を知るの必要(前號の續)」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「外國の事態を知るの必要(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那人が國を開て外國と交りながら其外國の何物たるを知らずして動もすれば攘夷の心相を呈する次第は〓に前號に記載したりしが、この攘夷の心相は獨り下流社會に現わるゝのみならず現に政府の要路に立ち〓機に當る人物にても其心の底を叩けば純然たる攘夷家多くして現時〓國政權の大部は此攘夷家の手に在るものゝ如し昨年の秋攘夷主義を以て有名なる前兵部尚書彭玉麟が左宗棠の周旋を以て新に辨理廣東軍務に任じたるが如きも亦其一證として見る可きなり抑も此彭玉麟なるものは長髪賊征討の際に大功を立てたる人にして文宗皇帝の咸豊六年賊軍の勢益〓〓、知府江忠〓は賊と戰て軍に死し布政使羅澤南も亦敗死し賊遂に江南を〓れ欽差大臣向榮の軍は敗走して丹陽に退き官兵勢急なるに當て玉麟總兵の任を帶ひ曾國藩の命を奉じて進んで〓陽湖に軍し賊の戰艦積〓を燒て遂に南康府を復し連戰して九江に克ち又〓州の賊據を奪へり穆宗皇帝の同治元年には賊を太平府に破て進んで金柱關を取り陳〓書五万の軍を〓撃して五戰皆な勝ち水陸大擧大に賊を花山に破れり玉麟の軍功斯く著大なりしが故に總兵より兵部侍郎に進み累遷の兵部尚書江南水師提督の職に登りたりしが玉麟久しく其職に居らず母老いたるを以て連りに上流して骸骨を乞う政府優禮して固く之を留めたれども〓〓已まざるが故に遂に其〓養を聽るして慰勞金凡そ十万圓を給したるに固辭す因て沐浴の邑を賜わんとしたれども又辭して受けず掛冠退職の後は〓貧洗うが如く家に擔石の貯なくして〓瓢〓空しきも〓如たり玉麟性太はた梅花を好み興來れば〓梅を〓〓して自から遣る、退職の際詩あり曰く功成不受封〓券、得向君王乞此身、好伴梅花入山去、借他〓操作吾眞、と亦以て其〓を想見するに足れり先是玉麟の江南水師提督たるや部下統率の水師八十万と号す其〓に職を辞するや妻梅妾鶴其事を高尚にして孤山居士の流風を追い復た世事を顧みずと雖も毎歳江南水師の操練ある毎には〓髪粗服徃を之を傍觀したりと云う水師固より前提督の人と爲りに服し愛敬追幕視ること猶嚴父のごとし故に其貧窮なるを聞くや相謀を〓金し須〓にして五十万圓を得、之を〓りたれば玉麟も其厚意を空うせず爾後門生幕實を養い十年一日の如く遂に昨年の秋に至りたり是時に當て佛國安南と隙を生じ兵端漸く開けたる報忽ち〓國に達したれば支那一般の公論は安南中國所属之邦たり〓夷をして一歩もこれに立入らしむ可からずとて物議粉々たる其際に〓國軍人の公望は唯玉麟の一身に集まり玉麟出てずんば蒼生を奈何せんと異口同音に唱へしかば左宗棠は之を擧げて遂に辨理廣東軍務の職に任じたる然るに玉麟は素より攘夷第一流の大家にして途に外國人に逢へば〓〓を以て面を〓ひ見ざるまでして過るを常とする程の次第なれば一旦廣東の軍務を辨理して同地方最上の兵權を握てより事に觸れて攘夷の政略を施し近頃に至ては廣東港口の水底に水雷火を装置して敗船を沈没し一朝の不〓に備えたれば入港の船艦も薄氣味惡く居留地の外國人に至ては昨年九月の暴動と云ひ又近頃の樣子と云い前を推して後に掛念すればこれを黙々に付す可からずとを早速北京政府に向ひ昨秋の一事にても明白なるが如く〓政府の居留外國人を保護するは未だ完全なりと云う可からず縱ひ政府の意に非ざるも若し暴徒ありて我居留地を襲撃せば我々の安危朝夕を保たず故に〓政府は我々に向ひ自國の兵艦士卒を以て我居留地を守るが許すか、左なくば一旦損害あらば政府之を償ふが、二者其一を擇われたしと嚴に掛合を附けたれば北京政府も返答に困しみ先ず彭玉麟の許に沙汰して今度水雷装置港口遮格の事は其底意孰れに在るやと一應の見込を尋ねたるに老将軍は之に〓るに唯一言を以てして云く將帥外に在るときは君命も聽かざる所ありとて傍若無人殺風景の有樣にして政府も殆んど困を果て左宗棠も初めは之を推擧したるものゝ今は玉麟の頑固に呆れ之を持て剰し居ると云う然りと雖も玉麟の名望は李鴻章左宗棠を始として天下其右に出づるものなく此人の爲めに死を願ふものは其幾百千万なることを知らず特に皇太后の寵遇も厚ければ容易に其位地を動かすこと能わざる可し斯かる攘夷家をして廣東の如き外國貿易の要地に久しく大權の柄を執らしめたらば今後外交上に關して如何なる椿事を惹き〓す可きや或は第二の林則徐たることなきを必ず可からず畢竟外國と交際して其事態を知らざる罪にして今日支那國外交上の安危は恰も一髪千〓を引く觀ありと云うも可なり我輩は支那の近事を見るに付け我邦士人の能く其覆轍を〓まざることを喜び我邦一般の人民をして隣人の過てを見て爰に自から〓みる所あらしめんと欲するなり(完)