「火の燃えざるを恃まず家の焼くべからざるを恃め」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「火の燃えざるを恃まず家の焼くべからざるを恃め」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

火の燃えざるを恃まず家の焼くべからざるを恃め

火災の惨毒は天下譬るに物なし一袴を焼き一笠を焼くも其惜しむべきや實に限なし況や此風凛烈の夜一戸火を失いて其災千万戸に及び幾千万の生〓は忽ち其棲處を失うのみならず併せて所蓄の財産を蕩盡し多年の辛苦經營を取を空しく一炬火に附し一身赤條々再び生計の辛苦を新たにして前途甚だ遙遠なるが如き其損失其辛苦實にこれより甚だしきものなかるべきなり然るに火事は江戸の花と稱し其災の劇烈なるを恐るゝの傍にも聊かこれに憤してこれを喜ぶ情あるは徳川幕政以來此大都に一種固有の習俗なり豈にこれを世界無比の惡習俗なりと云わざるを得んや然れども東京の人民たる者其火を戒むる心に於いて仮令聊か厚薄の別ありとするも自ら好いて其家を焼き財を失うことを樂しむ者は未だ會てあらざる道理なるが故に東京市内出火の原因をして獨り戒厳の不足より生ずる過誤の失火のみならしめば幾分が市内住居の人々も恃みて以て安心する所を知るべき筈なりと雖も〓〓いかな近來市中の取沙汰に依れば毎夜幾回の出火は大抵皆放火より起るものに係ると果して此取沙汰の如く無頼の徒所在出没し警官憲兵の經視の嚴なると各家各人相〓することの〓きとに拘わらず能く其〓計を恣にして妄りに火を弄するものならんには我東京市内火災の惨毒は遂に其〓止する所を知らざるべし豈に恐れざるべけんや戒めざるべけんや今放火の〓りに行はるゝ原因を聞くに其説に曰く近來諸業甚だ不景氣細民は其妻子までも扶持すること能はず遂に火を人家に放ちて盗を働く極に至りたるなりと又曰く下民の愚なる道を辮せず理を知らず寂〓不景氣の時莭に火事がなれば世が直ると唱え偶ま市内に火を失う者あれば竊かに相喜びて人の憂を樂しむ意味合なきにあらず目前に職工の手間賃騰貴し、材木石瓦戸障子襖畳の類好ぐ賣れ、膳椀桶〓皿茶碗の類好ぐ賣れ、類焼を免れたる各種の商店一も其商況を回復し得ざる者なし故に多數の愚民中には諸人の爲めなどゝ唱え竊かに自ら火を放ちて功德の偉なるを矜る者なきを必すべからず是亦放火の流行する一原因なりと果して此等の説の如くならんには目下大に警察を嚴密にして兇人を捕押さえ刑法の明文に依って大にこれを懲罰するを以て第一着歩と爲し次を兇人出現の原因なりと稱道する諸業の不景氣を挽回して繁昌に復する法を講ずるを以て第二着歩と爲すの外に工風なかるべし放火の兇人神出鬼没これを捕えること甚だ難しとは云うもの、其原因を除くに比すれば甚だ易し兇人は既に捕らえ盡くすも諸業の不景氣を回復せんとするは其事甚だ易からず政府の當局者と農工商社會の有力者が各皆大に其力を適當の方角に盡くすにあらざれば到底實際に其効驗を見ること能はざるべし但し農工商況回復の方案は本論の主意にあらざるが故に姑らくこれを舎き一旦各業の景氣回復し随て放火の兇人も其跡に収むることありたりとせしが其當坐東京市民は枕を高くして眠に就くことを得るべしと雖も商況の一弛一張は自然の數にして盛衰消長共に其永續を期すべからず焉ず知らん一度回復したる好景氣は再び不景氣を招く原因と爲り不景氣の極又今日の如く放火の兇人を出現せしめて東京市民をして又其枕を高くすることを得せしめざることを毎年冬季九十日商況の景氣如何を見て枕の高低を爲さんとするが如きは我輩其迂を笑わざるを得ざるなり加之東京の火災は其原由する所悉く放火のみに限るにあらず烈風の夜過ぎて自ら火を失い千万戸を一炬に附する例甚だ少なからず火を失するは人の過誤なり人の過誤は烈風の夜に限り必無なりと定まらざる以上は今の東京市内に住居して春夏秋冬一日も安心することを得べき道理なきなり

我輩は諸業の不景氣を憂えざるにあらず兇人の諸業を惡まざるにあらず人の怠惰火を失するを咎めざるにあらずと雖も唯これを憂いこれを惡みこれを咎むるのみにては未だ以て東京の火災を撲滅するに足らずと信ずるなり盖し東京の火事は其原因は枝葉こそ不景氣にも在り兇人の放火にも在り又人の怠惰過誤にもあらんかなれども其根底の原因は家屋の制の不完全なるに在りて家屋の制の不完全なるより外には火事の原因なしと云うも可ならん故に東京市内の制をして全く煉瓦造と石造とに改めしむるの後にあらざるより外は東京に火事の災を絶つこと至難中の至難事たるや甚だ明らかなり東京の中央市區を改正し同時に又家屋の制を煉瓦造、石造に改めんことを希望し其次第を時事新報紙上に記載したるは我輩其幾回なるを知らず東京市内家屋の制の不完全なるは内外人民の興論にして決して我輩記者の一家言にあらず近來兇徒出没惨酷にも火を人家に放つ惡事を企むる者ありて百万の人民夜を眠ること能はず幸いにして東京全都を變して焦土と爲すに至らざるは尚聊喜ぶべきが如しと雖も風の吹かず火の燃えざるを恃まず家の焼くべからざるを恃めこそ人間世界普通の道理なるべければ今我東京市内家屋の制を改良することは片時も猶橡すべきにあらざるなり