「佛法の運命如何」
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時事新報に掲載された「佛法の運命如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
人民が自から道徳心を維持して身の始末する其標凖は人人に從て同しからず或は天道一神を信ずるものあり或は衆神を設けて之を信ずるものあり或は古聖人の言を信ずるものあり或は君臣の關係よりして忠義の道を信ずるものあり人の種族に由て異なり其種族の智愚貧富に由て異なり世界古今千種万樣にして殆と際限なしと雖とも近く我日本國下流社會に行はるる徳心の標凖を尋れば佛法なりと答へざるを得ず明治十四年慶應義塾出版時事小言第六編二百八十七丁に云く
(前略)我國の宗旨は古來佛法にして中古に至るまでは全國貴賤の別なく皆これを信じて啻に徳教のみならず政治文學の事より工藝技術の末に至るまでも苟も人文に關するものは悉皆佛者の手に在らざるはなし徳川政府の初年より儒者の道漸く盛にして士族以上には佛を去て儒に入るもの多しと雖とも下流一般多數の人民は益佛を信ずること厚くして日に益盛大を致し曾て其信心を變ずることなし凡そ今日普通の語に因果因縁と云ひ、冥利冥加と云ひ、罪業と云ひ、業さらしと云ふが如き枚舉に遑あらず何れも皆佛語より俗語に移りて民間の道徳上に用るものなり南無三寳、南無阿彌陀佛の如きは既に其念佛の意味を離れて人間感動の發聲に用ること、あな、やあ、等の語と同樣なるものあり佛法の我民心に洽ねくして下流の道徳を支配し其教界の廣大なること以て知る可し方今各地方にても民心の特に平和なる處は佛教の盛なる處に多くして其特に殘酷なる處には果して寺院少なしと云ふ他日統計表の精密なるものを得て之を証す可し日本の士族學者流にしてよく自から其心身を制する者の爲には宗教も無益なれとも苟も其以下に在ては必ず佛法の教なかる可らず云云
以上の論説にして果して是ならば我國の佛法は國民多數の爲に之を保存せざる可らず方今世間に道徳彜倫の談あり論語大學も然る可きなれとも數百年來の實驗に儒道を以て廣く下民の私徳を養成したるの事例は甚だ少し日常の事に就け之を見るも無一文字の愚民が亡父母の墓に香花を手向けて祭祀を怠らざるも佛法あるが故のみ若しも佛者の教なかりせば下等社會にては親の命日を記する者もなきに至らん盖し死者を忘れざるは生者に篤くするの基にして下民多數の道徳は僅に此邊より發生す可きのみ然るに王政維新の初に當り神道者の考よりして樣樣に佛法を窘め時機次第にては廢佛に至らんとする程の勢にして佛者も之が爲に大に狼狽し其成跡は神道に益することなくして佛門全体に損する所は實に少少ならず以て今日に至りし其際には佛門中にも數百年來既に釀成したる腐敗氣を一時に放て自門自破の輩も少なからず四面敵に圍まれて法城の守護嚴ならず危急旦夕に迫るの事情もありしかとも唯僅に城中釋迦の忠臣とも云ふ可き者等が祖師先人の餘徳を藉り今世民間の信心に依頼して漸く殘喘を保つ折柄近來こそ世間にも少しく佛門攻撃の論を弛めたる樣にして其實際を視察すれば日本の佛法は十七年來廢佛論の創痍未だ癒へざるものと云ふ可し
一憂一喜交交到るには非ずして一憂未だ除かず又一憂を見る者は我日本の佛法歟維新以來廢佛論の創痍未た癒へずして今回は又改正徴兵令なるものに遭遇したり抑も此徴兵令は全國兵法の稍や全きものにして全國の男子丁年に至れば悉皆兵役を免かる可らず唯これを猶豫する者は戸主及び六十歳以上の者の嗣子等にして學問上に關して猶豫の特典を蒙る者は專ら官立府縣立學校の教員生徒に限り教義上に關しては唯教正の職に在る者のみ猶豫せらるる者とす此法律の行はるるに從て今後佛門に如何なる影響を及ぼす可きや聊か鄙見を陳べて讀者の高評を乞はんとす改正徴兵令に關して私立學校生徒の方向に迷ふ者は其數を知る可らず官私の學校相互に近接して相互に同一樣の事を脩めながら一方は萬安全の地位に居り一方は不安心の惨状に陷り如何ともす可きなければ私立學校にも官立同樣の特典あらんことを祈り若しも此特典を得られざることならば寧ろ官私共に特典外に置かれんことを祈るとの旨は本月十九日時事新報に之を論じたり盖し我輩が未だ此事に付て宗門上に論し及はざりしは學校と學校と其性質を同うするものにして幸不幸あるを疑ふが故に先づ之に着目したることなれとも佛法も其脩行の點に就て見れば一種の學問にして其脩行者は即ち生徒より外ならず然るに此佛學生徒は素より官立府縣立學校の生徒ならざるが故に脩行中に不安心なるは尋常私學校の生徒に異ならず即ち我輩が先づ私立學校を論じて次て佛門の有樣を論ずる由縁なり (以下次號)