「佛法の運命如何(昨日の續)」
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時事新報に掲載された「佛法の運命如何(昨日の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
改正徴兵令第十八條に左に掲る者は其事故の存する間徴集を猶豫すと記して其一項に教正の職に在る者とあり凡そ僧侶にて教正たる者は必ず其碩學老成人にして徴兵適齡二十歳前後にして此職に就く者ある可らず唯眞宗緒本山の住職は世襲にして其嗣子即ち新法主は弱冠にても教正たる可し故に僧侶にて此特典を蒙る者は尋常の有樣にては先づ眞宗に限るならんと云ふも不當には非ざる可し扨眞宗本山の法主又新法主は特典を蒙りて安心なりとするも其末寺幾万ケ寺の次三男は無論新發意(嗣子)にても老僧の年齡滿六十歳に達せざるより以下の者は現役に服せざるを得ず少しく事理を辨ずる者の眼を以て見れば僧侶とて日本國民の外ならず國民にして國役に服す固より當然の事にして殆と問題の外なるが如くなれとも本來佛法の性質を尋るときは唯在家末末の信心を以て成立して其在家末末なる者は事理を辨するの明に乏しきものなるが故に理を以て説くこと甚だ易からず眞宗の如き所謂眞俗兩諦を兼るものなれば徴兵の現役决して其教義に戻る所なかる可しと雖とも慈悲禁殺生は恰も佛門の本色にして正邪曲直を論せず唯眼前に憫れむ可きものは之を憫れみ、利害得失を論せず唯生を殺すを忌む、仮令ひ佛教の奧義は何れの點に在て其説明は何樣なるも其教義の反射して凡俗の眼に映する所は慈悲禁殺生の一義より外ならず盜賊も之を救ひ、讎敵も之を惡まず、鼠を捕るを忌て猫を飼はず、是れも生物なりとて虱を捻らざるが如きは即ち俗間に行はるる佛教の本義にして盖し數百千年來佛者の方便に養はれて習慣を成したるものと云ふ可きのみ斯る習慣を以て既に世世の天性に變じたる凡俗信者なれは今其佛教の師たる僧侶(殊に其局に當る新發意)が兵役に服して尋常の兵士と伍を成し時に或は戰塲に銃劍を弄ふと聞かば敢て之を拒むの力もなく唯茫然として膽を落し平生恰も生佛視したる法師に賣られたるの思を爲し何時となく次第に其信心を薄くす可きや自然の勢なり佛門に信心を失ふは封建の領主が土地を削らるるに異ならず唯其勢力を■(にすい+「咸」)するのみならずして實際其財政に困難を生し漸次に衰頽に陷る可きは數に於て最も睹易きものなり
右は眞宗の有樣なれとも他宗に於ては尚これよりも甚しきものある可しと信ず眞宗の寺は世襲なるが故に其嗣子が仮令ひ兵役簿上の者にして或は現に役に服することあるも世襲の故を以て必ず先住の後を承けざるを得ず且兵役は宗門一般に行はるる法にして到底免かる可らざるものなれば愚俗信者の信こそ■(にすい+「咸」)ず可けれ寺の廢滅に至るは容易に期す可らずと雖とも他宗に於ては其住職たる可き者の由を來る處は俗間の在家なるが故に其宗門中に碩學高僧を出すに非ざれば寺に住職を得ずして廢寺と爲る歟或は凡庸無學の俗僧のみを殘して宗門全体の衰微を致すことある可し例へば今の禪宗淨土宗法華宗等の如き其法弟小僧なる者は大抵皆俗間不幸の家の子弟を養ふて之に佛學を教へ其成長する中には隨分不品行の輩も多くして醜体を現すものなきに非ざれとも尚ほ成業の後に一ケ寺の住職たる可き僧侶は多少に佛學上の知識あらざるはなし殊に其學の奧薀に通して一宗の体面を維持し又これを輕重するが如き高僧は必ず少年の時より學を勤め心を潛めて法を脩する者なれば一身佛法の外に物なし、尋常一樣の人事にさへ迂闊なり、何ぞ政治を知らん况や兵事をや、純然たる世俗外の人物にして其世俗を去るの遠きは即ち佛に入るの深きものなり斯る清僧を生して始めて其宗派を保存す可きなれとも今この修行中の僧が滿二十年に達すれば兵役に服す可きの義務ありと聞かば必ず其心事を一轉し頓に志を挫いて修業を怠る歟又は斷然佛門を去て他の業に從事する者多かる可し盖し他宗の法弟は眞宗の嗣子と違ひ必ずしも先住を相續するの責任なくして進退自由なればなり左れば今年今月の有樣にては宗門中尚老僧學僧も少なからずして住職に差支もなかる可しと雖とも今後は第二世の僧侶を生ぜんとするの道に當り修業不變心の一物に遮られて大に法弟の數を■(にすい+「咸」)じ殊に眞成の佛學者に乏しきを告けて其寺院の寥寥たるは眞宗よりも尚一層の甚しきものある可しと信ずるなり但し我輩の曾て云へる如く今回の徴兵令は唯其徴集の區域を廣くしたるのみにして更に大に現役兵の數を増したるに非ず毎年適齡の者が抽籤して實際服役する者と抽籤者中僅に十分の一なる可ければ佛門修業の僧侶とて十名中唯一名を除去するのみなれとも唯如何せん抽籤とあるからには其籤に外づるるまでは當る可きものと覺悟せざる可らざるが故に不安の情は十名は十名皆一樣にして自から禁ずること能はず之が爲に遂に修業の熱心を冷却するも亦自然の人情と云ふ可きなり (畢)