「・交際論」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「・交際論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・交際論

橋本 武

文明の進むに從て人々の交際益繁劇に赴き交際の繁劇に赴くに從て交際の情誼も益、親密に赴くは自然の勢いなり而して交際の祕訣は相互に其情實を審にするにありて彼れ能く我れを知り我れ能く彼れを知りて其交際始めて親密なるべし彼れ能く我れを知らず我れ能く彼れを知らされは交際の親密得て期すべからず始めて逢ふ人には之を語るに金策の依賴を以てすべからず新傭の丁稚は直に掛取りに遣すべからず始めて逢ふ人必ずしも不深切なるにあらず新傭の丁稚必ずしも持逃を働くものにあらす然れとも彼の情實を審かにせざる以上は彼の正不正正信不信に拘はらず安心して事を談し事を發すべからざるは自然の人情にして彼の我に於けるも亦た尚ほ此の如きなり交際の祕訣は彼我の情實を審かにするにありと知るべし

交際の祕訣は彼我の情實を審にするにありと知る以上は双方務めて其情實を明にすることを求めざるべからず人の己を知らざるを憂へず人を知らさること憂へよとは二千年前儒敎の訓言にして固陋學者輩の共に格言として進奉する所なれとも此言をして實際に行はれしめば蓋し其弊害に堪ゆべからざる者あらん往昔の如く人事の運動緩慢にして唯我獨尊一小天地に蟄居し桃源洞裡に睡眠するの世には鼓腹撃壤閑日月を樂み人の我を知らざる我に於て固より利害損益なきことならんなれとも文明日進事物の運動繁劇にして瞬息も猶琅すべからざるの今日に於ては人を知らざる固より憂ふべしと雖とも人の己を知らざる是れ亦憂へざるべからず能あるものは務めて其能を顯はし才あるものは務めて其才を顯はし銘々得意の才能を顯はして人の我を知るを待たず我より進んで人に知らるゝの工夫をなさゞるべからず其工風を懈りては人の己を知らざるを憂へざる時は徒らに才能智識を抱て遂に人後に瞠若たらざるを得ざるに至らん文明日進活溌愉快の世に居て獨り人後に瞠若たる其情誠に悲むべしと雖とも亦た己の覺悟の宜しからざるに依る自から責むべし人を咎むべからず彼の輕躁浮薄の徒智識もなく才能もなく屡々讀書の一端を窺ふのみにして只名の聞ることを是れ斯るが如きは固より沙汰の隔りにして吾輩の決して慫慂する所にあらざるなり

今國と國との交際に就て見るも其理亦た同しく然るべきなり開港以來日本は連りに西洋の文明を入れて蒸汽電信郵便を始め政治法律文學工藝等皆西洋に倣ひ之を用ひて舊來の陋習を破り〓々二三十年間にして日本は西洋文明の帚木を以て大に舊來の汚物を掃除したりと云ふべし而して此等の文明物は皆彼を知るの機械となり法律を學ぶものは西洋人の公義を重するを知り哲學を學ぶものは其議論に緻密なるを知り蒸汽電信を見る者は其工風に長したるを知る等一一彼を知るの器械となり我能く彼を知るに隨て彼を敬愛するの念あり之を敬愛するの念あり親密の交際得て期すべきなり然るに我の彼を知るの割合に彼れ未た我を知らず我を知らざるか故に亦我を敬愛するの念なし我を敬愛するの念なきか故に遂に我を蔑視するの心あり其心に發し其事に顯はるは人情に免るゝ能はざる所先づ我を蔑視するの心あり故に我を蔑視するの事あり其事は末なり其心は本なり基本を去るを務めず徒らに其末を惡むは智者の事と云ふべからず西洋人橫着は則ち橫着なりと雖とも終始我を蔑視する者にあらず其我を蔑視するは固と我を知らざるに依るものなれば我は務めて彼をして我を知らしめざるべからず日本人を見て支那人なりと云ひ日本の名を聞て其國の在る處を知らざるもの多きは歐洲に渡航する者の毎度經驗する所なり西洋との交際斯く繁雜なる其際に日本人を支那人と誤認し或は日本の名を聞くも其國を知らざるもの多し抔云ふが如き我々日本國人の耳には如何にも不可思議千萬に聞ゆと雖とも決して不可思議にあらず當然の事なり地方の豪家有志家其名一地方内に聞ゆるを以て揚々自得し適ま東京に出つる時は嘗て我を知る者なく我を顧る者なく大に落膽失望するの例少なからず一地方の人は小數なり全國の人は大數なり小數の己ち知るを以て輒ち大數も亦た己ち知るなるべしと速斷すべからず日本國は東洋の一孤島なり此孤島に往來する西洋人は其數強ち小數にもあらず又我より彼に航する所の官吏書生商工業の人等は皆日本の名を西洋に注入するの機械たるべし然れとも此等の機械たる廣土衆民の西洋に取りては誠に〓々數にして恰も一掬の濁水を取て大海に投するが如し以て大海を濁すに足らず西洋との交際往復日本に在る我より之を見る時は頻々繁雜なるが如くなれとも彼れに取りては一掬の濁水に過ぎす固より以て大西洋海を濁すに足らず彼の我を知らざる決して故なきにあらず遺憾千萬なりと雖とも勢の然らしむる所一概に歎息をなすべからず宜しく進んて我を知らしむるの策を施さゞるべからず彼れ亦文明の人種なり冥頑不靈なる者にあらず彼れ若し一旦我を知らば從て我を敬愛するの心を生ぜざるを得ず既に我を敬愛するの心を生ず從て我を敬愛するの所置あるべきは人間心理上の原則に於て動かすべからず故に今日に於ては人を知らざる固より憂ふべしと雖とも人の己を知らざる是れ亦憂へざるへからず

然るに近時の日本の風潮は何となく退歩の姿を顯はし殊に儒敎の如き漸く再び某萌芽を出して一時高閣に束ねられたる漢籍類の時を得顏に欣然たる樣子あるを見て日本文明の爲に大に憂ふる者あれとも吾輩を以て之を觀るに是れ憂ふるに足らざるの憂なり如何となれば此樣の學問が今日に於て長く其氣息を保つ能はざるは自然の道理にして文明氣運の許さゞる所なり且つ儒敎の主義を實際に行れしむるの希望を立つるには必ずや先づ日本の利益を擧けて外人の握取に供するの覺悟なかるべからずと信するなり儒敎の主義人閒を君子小人に大別して利を以て爭ふ者は小人となし徳を以て爭ふものを君子となし君子には交はるべし小人には交はるべからず君子は貴ぶべし小人は賤むべしと區別至極簡單なりと雖とも此簡單區別意外の弊害を引き起す事ならん其一例を擧くれば宋仁宗皇帝の時王安石始めて新法を立つ其事理財即ち利益の法方に關するを以て守舊の輩は大に驚き是れ先王德を以て下を率ゆるの趣意に戻るものなりとて怒て之を爭ひ新法論者を指して小人黨となし固陋の輩は自ら君子黨と稱して彼れ君子の賤しむ所の利益を謀る捨て置くべからずと其蚊々磊々の聲は新法の利害にあらずして新法論者の身上を攻撃するにあり小人なり近づくべからず小人なり罷めざるべからず小人なり誅せざるべからずと云ひて其惡口雜言誠に喧びすしかりし今儒敎の實行を希望するものは則ち此種の君子を希望するものにして日本國を擧けて此君子黨に加盟し通國利を爭ふの小人なり皆孔孟の服を服し孔孟の言を誦し孔孟の行を行ひて而る後に始めて滿足することならん

去れとも文明日進の今日に於ては人に爭ひて其交際を廣くし公私の利を謀り務めて漢儒の所謂小人の業に從事せざるべからず小人の一人も多からんことは今日に望む所なり且つ今後鐵道敷設の業盛に興り全國縱橫に架設するに至らは勢ひ外人の雜居を許さゞるを得ず一旦雜居を許すと事定まる時は西洋の小人爭て日本の孤島に來集することならん昨日は英吉利の小人來り今日は佛蘭西の小人來り又明日は日耳曼の小人來り各國の小人日に日を繼て渡來することならん而して此等各國の小人は思ひ思ひに内地に居て占めて爭ひて利を謀ることならん此時に當り小人は卑むべし小人は交はるべからすと云ひて我獨り悠然高く構へ恬然閑日月を樂むことを得べきや利を言ふて惡む仇議の如き儒敎の君子如何に心配すと雖とも文明の風潮には敵すべからず我亦た務めて此等の小人と交際して利を爭はざるべからず數年を出てずして從來君子國たる日本は變して小人國となることならん文明の爲めには賀すべきことなり吾輩故に曰く儒敎の主義を實際に行はれしむるの希望を立つるの前には先つ日本の利益を擧けて外人の握取に供するの覺悟なかるべからずと

儒敎の再燃は既に憂ふるに足らざることは右の理由に依りて明白なるべしと雖とも此儒敎が從來日本人心に印せる一点の痕跡尚ほ未た全く消滅せざるものあれは務めて之を去らざるべからず即ち一向に謙遜退守して進取すること知らざるもの是なり今後交際益繁劇となり人事益多端に赴くに際し人の己を知らざるを憂へず人を知らざるを憂へよと云ひて己を知らしむるの覺悟なく獨り臥龍を氣取るときは文明の風潮は我を三顧せす早く既に其門前を過きて復た追ふべからず徒らに不平を抱て朽ち果つるの場合もあらん人を知るの傍ら又た務めて己を知らしむるの覺悟なかるべからざるなり彼我能く相ひ知り相ひ悉くして始めて親密の交際をなし文明の境遇に競爭することを得べきなり