「不景氣に狼狽する勿れ」
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時事新報に掲載された「不景氣に狼狽する勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
方今天下理財の有樣を見るに公債証書の價は次第に騰貴して尚進まんとするものの如し正貨は次第に下落して上向きの氣色なし金の利息は甚た低くして金滿家は其用法に苦しむが如きは誠に目出度き次第にして更に心配なきに似たれとも此有樣は眞實目出度きに非ずして言語道斷なるものと云はざるを得ず之を譬へば病人に腹痛の止みたるは目出度きが如くなれとも其止むや身体健康に復したるに非ずして麻痺の爲に痛を感せざる者に等し病症に於ては言語道斷なることと申す可し是等は事の最も見易きものにして少しく理財の考あらん人には早く既に了解する所なれとも廣き世の中には或は事情に暗くして方向を誤る人もあらんかと思ひ議論の近淺なるを憚らず我輩の所見を左に述べんとす
今の公債証書七分利付にて九十圓或は九十一二圓にも上ることあり實價九十圓にて七分の利子を■(しょうへん(将の左側)+「又」)領するは一年七分七厘の割合なり抑も日本は如何なる國と尋れば東洋の一國にして人口は多く資本は少なき國柄なり即ち金の利足は高き筈にして又實際にも其約束に違はず仮令ひ堅固なる抵當あるも一年一割の下に下りたることなし徳川政府の時代にも所謂御定利足とは二十五兩一歩即ち一年一割二分を以て普通としたるを見ても知る可し維新以來世上に事業の増すに從て利足の割合は上に上るも下に下るの勢なかりしものが近來頓に下落して金滿家が僅に七分七厘の利子に安んずるとは即ち事の變態にして尋常の事とは云ふ可らず
又銀貨の價が一圓八十錢にまでも上りたるは或は實に過きたる騰貴なりとするも今日一圓十錢臺に下り尚十錢以内に入りたる、不審ならずや前後七十錢の相違即ち百に付き凡四十の差なれとも政府及ひ國立銀行より發行したる紙幣が其四割を■(にすい+「咸」)却したることは曾て聞かざる所なり紙幣■(にすい+「咸」)却せずして銀貨の下落は一時横濱商况の爲に然るものにして苟も政府が兌換の命令を發するまでは銀貨の下落も隨時の變態として永く恃むに足らざるものなり
又金利の下落は國中の商工社會に信用なきが故なり地券を抵當にして金を貸せば地價下落して損毛を蒙り、品物を抵當にすれば抵當流れにて又損し、自ら商賣品を仕入るれば物價下落して又損して、依て金銀地金歟又は公債証書の抵當を求め其抵當は少なくして金を貸さんことを願ふ者多きが故に自然に利足の下落を催すのみなれとも其信用を得ざる部分に於ては金の切迫甚しく利足の高下を問はずして借用せんと欲する者多し之を譬へば河の流に堰をして之を斷ち下流は渇水にして上流には溢るるものの如し然りと雖とも商工社會に信用なしとは其商工輩が俄に徳義を薄くして詐僞のみを行ふ譯けには非ず今年の人物も前年の人物も其心術は同樣なれとも唯商賣の不景氣にして一般の人民に物を買ふの念を薄くし又實に之を買ふの力を失ふたるが故に自然に賣捌の路を狹くし隨て金の循環融通を止め之が爲に苟も他に負債ある者は其身に聊かも不義理の念なきも止むを得ずして違約の沙汰に及ばざるを得ず金主の方にては借方の人物如何に拘はらず返濟に違約されては難澁なるが故に極極慥なる抵當にても持參するに非ざれば金を手放す可らす是れ即ち商工社會に信用の壞れたる有樣なれとも元來經濟上の道理に於ては商况不景氣は幾年も長續きす可きものに非ず目下人民が品物を買ふことを好まずと雖とも衣服なり道具類なり之を用れば損傷して遂には復た求めざる可からず住居の家も破損すれば普請せざる可らず冠婚葬祭、世間が不景氣なればとて見合せにすることも成り難し増して况んや穀物の貯に於てをや去年などは幸にして豊作なればこそ國民の食に供して餘り、米價も下落したることなれとも今年とも知れず來年とも知れず饑饉に逢ふこともあらんには忽ち價の騰貴す可きや明なり饑饉は期す可き限りに非ずとするも今月今日有合ひの品物を用て其盡るの日あるは誠に慥なる數の勘定なれば商賣の機會爰に端を開き舊の時勢に復す可きは又疑を容れず即ち物價騰貴商賣社會繁昌の時節なり諸物價既に上向きの勢を現はすときは諸色は米價に連れて上り米價は諸色に伴ふて上り地面の價は又米價に從て騰貴せん加之今の不景氣の時に製造を怠り仕入れを見合せたるが爲に万物皆拂底を告けて或は今日の反對に騰貴の乱相塲を見ることもあらんのみ
右の次第は經濟上に於て誠に見易きことにして都會の聞見に富む人なれば誰れも知る所なれとも或は田舍の地方にては一時米價の下落に驚き地價の下落に驚き又金融の切迫に窘められ祖先以來所有の田地も遂に有名無實の長物たらんものと覺悟して甚しきは其價の高下を問はず之を投け賣りにして公債証書を買はんとする者なきに非ず前に云へる如く今の公債証書 價は唯一時の變態にして商人等が之を所有するは永代所有の念あるに非ず商况回復の機を見れば猶豫なく之を賣らんとして朝に晩に其機を待つものなれば田舍の人にして斯る危きものに依頼して傳來の家産たる地面を左右するは甚しき間違と申す可きなり頃日偶偶或る地方の富豪より此邊の事に付質問を受けしとき我輩が口頭にて平易に返答したるものあり依て其口述の大意を一篇に記して尚これを廣く世間の人に告るものなり