「帝国支那政府是より將さに多事ならんとす」
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本文
帝国支那政府是より將さに多事ならんとす
安南事件に關して清佛兩國の葛藤正さに闌なるの時に當り
て支那政府の處置の斷乎たる又其活發なる是ぞ實に同政府
が古來外交上の掛引に關し空前絶後の上手際にして多年支
那人を遅鈍なり怯懦なりと妄評し傲慢自から喜ぶの徒をし
て翟然として竊かに自から戒むる所を知り唖然として一語
を發すること能はざらしめしもの凡そ一年計りなりし其有樣
は覺えず観る者をして快と呼ばしめたるなり若し此勢の僅
にして今數年間の進行を持續したらんには其成果たる獨り
支那帝國の尊巌を維持し三億八千万人の福利を増進するの
みならず東洋全体の衰運を挽回して再び式徹の歎を聞かざ
らしむること手を翻すより容易なりしならん然るに人事は櫻
花の如く今日偶々其艶容を称して更に又これを明日に期す
べからず春眠未た暁を覺えざるの際に風雨一過忽ち梢上の
白雲を吹散して空しく路傍の泥濘に委し去り朝起の人をし
て轉た悵然の思に堪えざらしむるの例に違はず支那政府が
安南事件を處するの擧動も愈進みて愈急に正さに其頂嶺に
達したるものを彼の佛國人の魯鈍剛愎なる尚ほも其歩を進
めて北篝太原に至り遂に支那黄龍領下の逆鱗に触れたるを
見て、すは事こそ出て來れり山崩れ海溢れ天地疇冥此時な
りと人々大に覺悟する所ありしにも拘はらず爾来何の異變
もなく天は益遠し地は益静かに春畫の永き年に異ならず是
將た何等の状況ぞや先づ電光を見て後に雷鳴を聞かず世人
の失望も決して無理ならずと信ずるなり人事は元と豫想の
外に出るを常とするなれとも安南事件に關する支那政府の擧
動の如きは蓋し尋常外の特例なるべし
外交の手段は正あり権あり虚々實々敵をして我衛中に在り
て自からこれを知ること能はざらしむるは云ふまでもなく
肝要なりと雖とも徹頭徹尾百の虚より成立して一の責なく我
言は必ず我意の在る所の反對を示すものなりと證明したる
以上は最早其手段たるの効用を失ふのみならず其威嚇は却
て明々白々の地に我眞意の在る所を直言して毫も虚飾せざり
しものに及ばざること遠かるべし鬼面以て小児嚇すべし
以て永く大人を欺くべからず支那政府が佛國に對する外交
の手段は能く始ありて終なきなり終あらざる者は千言万語
も亦何の益かあらん帝に益あらざるのみならず却て爲めに
我肺肝を洞見せられこれを外にしては四隣敵國の侮を招き
これを内にしては上下國民の疑惑を來たし遂に以て國家不
測の息害を醸成すべきやも知るべからざるなり惜い哉支那
政府の思慮此に及はず當初毫も其言を賤むの覺悟なくして
輕々妄りに誓言を爲し今日其言債を償還するの期に達して
俄に其言を食まんとするも山の如きの大言前後幾百千個何
ぞ一朝にこれを呑尽すべけんや嗚呼支那政府が言を慎まざ
るの後悔は駟馬に鞭うつも及ぶべからざるなり
支那國民中現在の滿朝政府に對し不平を懐くの徒甚た少な
からず湖南に老哥會あり廣東に三合會あり四川陜西に白蓮
教徒ありて各皆陰に不軌を謀り機會の乗すべきを待つ一朝
一夕の事にあらず中に就き老哥會は勢燄最も熾にして其毒
の蔓延も亦甚た廣く到底教治すべからざるが如き勢ありと
蓋し支那政府が内に顧みて逡巡躊躇し大に其力を外交に集
むること能はざるも其原因は内盗の勢力頗る強盛にして大に
戒心を要するが爲めなるべし現に廣東省慶州府に於ては
三合党の暴發するありて廣東香港等に至るまで人心甚だ穏か
ならざるに賊徒追討の官軍は未た其功を奏したるを聞かず
此際老哥党の湖南に蜂起するありて南北互に声援する樣の
事ありては實に由々しき大事なりとて支那政府の心痛容易
ならずと云へり内國の事情既に斯の如し仮令今回に限りて
迅速に慶州の叛徒を鎮壓することを得又彼の湖南の老哥党川
陜の白蓮教徒等も南北相通謀して蜂起することなしとするも
此僥倖は未だ支那政府をして安心せしむるに足らざるべし
何となれば内既に其病毒の埋伏する以上は今日以後これを
外に激發するの機會に乏しからざればなり歐州諸國の支那
に垂涎する蓋し一日の故にあらず今や佛國の安南全土を席
捲し尚ほも進みて支那本地の南端へも浸入せんとするを見
て皆竊かにこれを羨まざる者なし露西亜も欲する所あり日耳
蔓も欲する所なきにあらず甚しきは小國葡萄牙の如きに至るまて
亦大に欲する所なきにあらず彼等自から謂はん支那に向ひ
て其慾を済すは道に遺たる物を拾ふより易し唯唯一事の煩は
しきは當初初誓なく主人支那政府の恐嚇を馬耳東風に聞流す
のみ佯装の一勞土地人民を得るの報酬あり其利薄しと云ふ
べからさるなり先づ朝鮮に着手せんか伊犁問題を再燃せん
か或は臺灣に據らんか或は澳門全半嶋を押領せんかと彼れ
も此れも見る者として一も欲すべからざるはなく欲する物
として一も取るべからざるはなく慾情の熾なる所何ぞ其慾
を済すの口實なきを憂へん國に外患あるは盗賊の志を成す
機會なり敵國外に逼り盗賊内に起る今後支那帝国の多事蓋
し今日に想像し能はざるものあらんと信ずるなり