「公使皆其任に在らず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「公使皆其任に在らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

公使皆其任に在らず

修好諸國の朝廷に使節を派遣し置くは何の爲めぞや彼我交渉の事務を處辯するに當より我政府を代理せしむるが爲めなり其國の朝廷に我と相關する外交の事務なからんか決して使節の派遣を要せず若し事務あらんか使節在留の必要なるは辯を俟たずして明白なるべし

寺島全權公使は去年米國より歸朝し養病のため久しく熱海の温泉塲にありしが追て快癒の由にて東京に歸り來り爾後健康全く舊に復したりと言傳れとも未た再び任所に赴くの沙汰を聞かず華盛頓の外交事務は全く内藤書記官に委任して顧慮する所なきものゝ如し蓋し米國は支那朝鮮を除くの外我に最近の隣國にして彼我交渉の外交事務又決して少なしと云ふべからず殊に我日本國人と相新愛するの情厚きものは西洋諸國中實に米國人の右に出るものなし開國以來三十年の間我外交上の困難事少なからず爲めに自他の情誼を毀損したるの例枚擧に遑あらざりしと雖とも不思議にも日米兩國の間には嘗て怨を懐き相疾視したるの不幸なかりし此事偶然に似て決して偶然にあらず彼我相知るの情深くして相交はるに禮を失はざりしがためなるのみ若し米國人にして日本人を野蛮視し日本人にして米國人を異類視するが如きの弊ありたらんには爭で今日の如き親密の交際を維持するを得んや彼の下の關償金を返還したるが如きも其金員の利のみを云へばこれを米國に留め置くもこれを日本に送り還すも爲めに兩國の損得に關すべき程のものならずと雖とも其義心の芳はしきは千万圓にも換ふべからざるもの在て存すと知らるべし日米兩國の交際實に斯の如く親密なり而して直接に米國人に接し日本人を代表して此親密の交際を維持する者は何人ぞと云ふに華盛頓に在留の日本公使其人なり公使の任の重きは啻に公務上文書往復等の爲めのみにあらず公に私に一個人上の往來慶吊の細事に至るまで直接間接に皆兩國間の交際に影響するものありて然るなり然るに此重要の公使にして久しく其任を空しくす決して其宜しきを得たるものと云ふべからざるが如し人或は曰く公使不在なりと雖とも書記官の留守するありて其事務を代理するが故に兩國の外交上に決して不都合の事なきなりと一應の事理固より或人の説の如し然れとも畢竟するに公使在勤の要用あればこそ公使を置くなれ若し書記官にして差支えなきものならんには最初より公使を派遣するの費用と煩勞とを取らざるべきなり公使の任に在ると書記官の代理すると其効用の大小輕重固より我輩の辯説を要せざるべし仮りに吾人をして公使を引接する主人の地位に立たしめよ我東亰に公使館を設け厳然全権公使の在勤するあると間に合ひに書記官の事務代理するあると其國に對する吾人の感情は果して如何の相違あるべきや若し相違ありとせば米國人が日本に對するも亦同一の感情あらんのみ故に寺島公使にして再び赴任すべき筈ならんか一日も其行を急くべし若し再任する筈にあらざるか速かに後任の公使を命して任に華盛頓に就かしめざるべからず書記官の代理は決して永くすべきものにあらざるなり

東隣の米國既に斯の如し今又顧みて西隣の支那朝鮮を見るに此多事困難の日に當りて同しく又公使の在勤するものなきは何等の理由ぞや目下朝鮮の外交事務を見るに仁川の開港日尚ほ淺しと云ひ去年九月以後は新たに揚花鎭に貿易塲を設るの約束もあり或は各港の游歩規定を廣むるの件もあると云ひ韓廷と熟議を要するの事務必ず繁多なるべきや疑を容れず殊に去年十月英獨兩國も新たに朝鮮と條約を結び昨今は各其批准交換もあるべき日取りなり此等の條款全文は我輩未だこれを一讀するの折を得ずと雖とも其所載の條款は日韓の修好條規幷に去年約定の貿易規則等と符合せざる所甚だ多しと聞けり或は云ふ釜山地方開港塲の如きも英人は別に一港を撑ぶや又は日本と同しく釜山港も使用すべきや未た決定せずと此事日本人に取りては中々重大の問題なり或は云ふ支那人にして現時の如く亰城内に在りて商店を開設する以上は英人も亦亰城に來りて貿易を營むの約束ありと支那人英人にして亰城内の貿易勝手ならんには我日本人も最優等國の例を推して亰城に入らざるべからず是亦重大の問題なり又或は云ふ英韓條約の朝鮮海關税則は日本人に對する現行の税則に比すれば甚た輕減したる所ありと果して然らば英韓條約批准交換實行の即日より日本人の遵奉する現行の税則も英韓條約に據りて改正せざるべからず是亦重大の問題なり斯の如く枚擧し來れば目下漢白在勤日本公使の職務は非常に繁劇にして亦甚た重要なりと云はざ

るを得ず然るに竹添辯理公使は去年歸朝の儘東亰に滞在して未た其任に漢城に還りたるを聞かず目下重要の事務は島村書記官をして留守代理せしむるを見て我輩は又其意の在る所を知るに苦しむなり

北亰の外交事務の如きも亦前記の始末に異ならず今や安南事件に關し清佛の葛藤未た全く其局を結はず我日本政府も謳米諸國と聯合して軍艦を支那海に派遣し支那在留の日本人民を保護する所あらんとするなど緊切至極の折柄なれば北亰外交事務の甚だ大切なるは云はずして知るべきなり然るに榎本全権公使は去年俄かに單身歸朝し昨今は又北亰留守の令閣にも既に歸朝の途に就き不日東亰に到るべしとの噂あれとも公使が歸任の用意急なりとの噂あるを聞かず北亰の外交事務は一切吉田書記官の代理に委して決して不都合なきが如きを見て我輩又竊かに惑ふ所なきを得ざるなり米國と云ひ朝鮮と云ひ又支那と云ひ我輩の眼を以てこれを見れば目下公使の在任を要すること無論なりと知ると雖とも其實際於て皆然らざるものは盖しまた我輩の知る能はざる理由在りて存するがためならん