「文明世界の競爭は人の油斷を許さず」
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時事新報に掲載された「文明世界の競爭は人の油斷を許さず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
文明世界の競爭は人の油斷を許さず
文明の進歩は駟も及ぶべからず時勢の變化は奔湍の水流よりも尚ほ急なり去年の新發明は今年の陳手段と爲り昨日の珍説は今日の腐論と爲る農商工藝政治學術を論せず今の活發無比の世界に在りて日に皆其性質を變化せざるものなし農事に於ける穀價の一上一下して隨て地價の上下するは農家の生命を伸縮するものにしてこれに處するの法の困難なる凡庸知識の能く堪ゆる所にあらず然れとも農業は必ずしも稻作に限るにあらず唯地力に應して其利を遺さざるに在るのみ誰か料らん吾は米價の下落を痛恨して徒らに薄命を歎するの際に隣人は早く既に稻田を變して桑田と爲し米價下落の風雨を知らずして春蚕の日に肥るを樂みつつあらんとは又商賣の事に於ける古來日本の商人は其商域を掌大の日本島内に限り有無融通の道の遲緩にして其及ぶ所の甚た狹き固より以て文明の商業と名くるに足らず開港以來漸く世界の空氣に觸れ漸く舊法を改むるの必要を感し知らず識らずの際に舊人去りて新人現はれ商賣社會の面目復た昔日の幼穉暗黒にあらず今日の郵便を取扱ふ人は昔日の飛脚屋にあらず今日の蒸氣船を運轉する人は昔日の船持にあらず今日の銀行を支配する人は昔日の両替屋にあらず今日の活版印刷業を營む人は昔日の書物問屋版木師にあらず何れも皆舊人が舊業を轉して自から新業に遷りたるにあらずして新人が新業を興して舊人に代りたるものなり試に今日の商賣社會を見よ活發有爲の紳商として人に名を知らるる者は數百年來の商家に生れて古風の敎育に成長したる人にあらずして自己の才能と新知識とを以て單身新業に從事したる人に非ざるはなし商賣社會の變化も亦甚た大なりと云ふべきなり然れとも今日の變化は决して其極度に達したるものにあらず今より數年を出てずして鉄道の敷設漸く國内に偏ねく朝に東京を發して夕に大坂に至り翌朝は早く既に長崎に在りて商務を辨する時節となり隨て又外國の商人も内地雜居勝手次第何れの都邑に在りて業を營むも自由自在なる時節となれば商賣社會の變化は果して何様の程度に達すべきや實に我々の想像にも及ばざる所なり此時に至り一たび試に商賣社會の有様を通覽せば我々は又如何の實况を見出すべきや明治十七年の今日孤城落日の舊商人は勿論目下方さに旭日中天の勢ある新商人と雖とも何時か商賣社會の表面の下に沈淪し盡して其隻影だも留めず東京大坂等の中心市塲に屹立して内外の商權を把握する各種の商社は悉く皆今日の商賣社會に名を知られざる卑賤未熟の丁稚輩が支配する所ならんやも知るべからざるなり又學術工藝の事に於けるも日に進み月に改まり三年前の藝術は以て今日の人事に適用すべからず去年は門前市を成すの〓業醫師も今年は忽ち玄關に雀羅を設け隣家の少年醫生の得々として奔走繁榮するを羨むもあらん昔日は博學宏才の美名〓近に喧しかりし大博士も今日は小學生徒と其學識を爭ふの辱を忍ぶこともあらん昔日は海陸幾万の軍兵を叱咤せし將軍にして其識藝の淺薄なるを以て今日の水火夫築城卒の用にだも充つべからず不用の廢物として永く其老朽に任することもあらん十年の苦學蒸氣器械の學術を學びて未た成らず忽ち電氣學者の追ひ及ぶ所となりて其足を踏まれ空しく人後に瞠着たるもあらん一度學び得たる學術は决して生涯の實にあらざるなり又彼の政治社會の事に於ける最も人爲の規則を以て天然法の作用を制し得るものなりと云ふと雖とも苟くも文明世界の中に存在する限り全く優勝劣敗の約束を止むること能はず憲法制定國會開設政治上の動作漸く自由なるに至れば隨て種々の變化を促かし舊時の令尹新應の門監を拜命するの奇談もあらん實に人世に頼み少なきこと斯の如し今の文明世界の人と爲りて世に處するの道を過ふざらんとするは盖し難中の難事なりと云ふべきなり
然るに今此文明世界の中に在りて空しく落後の人たらざらんとするは農商工士學術社會の人たるを問はず一に唯其人平生の心掛に在りて存せんのみ世界の大勢を通觀し己れの一身を顧み片時も油斷せざるのみ油斷は實に身を亡ぼすの大敵なりと知るべきなり世間少壯の子弟動もすれば小成に安んじ小康を樂み敢爲勇進の氣象に乏しくして寡欲足るを知る者比々皆然らざるはなし此輩の口吻として世間他の時勢に後れて彷徨、路に迷ふの老大者を罵言し其無氣力を歎すること千万人皆同音なりと雖とも焉ぞ知らん此少壯輩にして早く既に其名を時勢後れの名簿中に記入せられあらんとは時勢變遷の急激なるは眼晴を轉するの暇もあるべからず苟くも永く文明世界の人たらんとする慾心ある以上は仮令少壯の身なればとて决してえ油斷すべからず死して棺を蓋ふの日までは苦學股に錐するの人にして努力を終りて報酬を享樂すべき身にあらずと覺悟すべきなり