「支那政府軍機大臣の更迭」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那政府軍機大臣の更迭」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那政府軍機大臣の更迭

讀者諸君は一昨日の時事新報雑報欄内に就きて「支那政府内閣更迭」と題したる一項を熟讀せられしなるべし此更迭の報道は去る九日北京發の電報を以て東京の其筋へ達したるものにして事實相違の報道にあらざることは我輩の敢て保證する所なり我輩は諸君が自から記臆に課するの勞を省かんがため再び左に電報の文意を記すべし

 北京官報の報道に依れば軍機大臣恭親王、寶■(「均」+「金」)、李鴻藻、景廉、翁同■(「侖」の「一」と「横棒が突き抜けていない冊」の間に「口」が3つ+「禾」)は其職を罷められ禮親王、戸部尚書額勒和布、同閻敬銘、刑部尚書張之萬、工部侍郎孫毓■(さんずい+「文」)は其後任に命ぜられたり

此更迭は支那帝國に取りて近來の一大事件たるのみならず世界全般就中東洋又は西洋に在りて支那と直接の關係を有する國々に取りては遠からず此變動の響きを感すべき外交上至重の問題たるが故に我輩も亦讀者諸君と共に十分に此事を講究するの責を免かるること能はず然れとも唯此電文を一讀したるのみにては我輩未だ遽かに何の原因に由りて此更迭を來たし此更迭に由りて何の結果を來たすべきかを明言すること能はざるなり何れにも今より一二週日を出てずして詳細の郵報を落手するなるべく然る上ならでは委曲の事情を知ること難かるべしと思はるるなり依て我輩は新舊大臣の履歴等に關し我輩の記臆する所を畧記して豫め讀者諸君の參考に供すべし

支那の道光帝(宜宗綿寧)に男子九人あり帝在位二十年我嘉永三庚戌の年壽七十二歳にして崩ず此時長男より第三男に至るまでは夭死して世に無く第四男父の後を承けて位に即くこれを咸豊帝(文宗奕貯)と云ふ第五男は惇親王第六男は恭親王第七男は醇親王第八第九は親王にあらず各某郡王たり」咸豊十年西暦千八百六十年英佛聯合の兵支那を侵し天津通州を陷れ進みて北京に迫るに及びて帝恐懼し后妃諸王を率ひて北の方熱河に蒙塵し恭親王を北京の留守として英佛の兵を禦かしめたり北京落城するに至りて償金千二百万両を出し新たに七港を開きて貿易塲に加へ以て英沸と和を〓し又黒龍江北の地を割きて魯西亞に與へ以て和睦周旋の〓を謝する〓〓を恭親王の留守〓〓する所にして此〓〓り〓〓〓〓〓〓〓て〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓十一年我文久元辛酉の年帝熱河に崩ず〓〓〓太子位に〓た年甫めて〓〓これを同治帝(穆宗載淳)と云ふ咸豊帝の崩ずるや〓臣〓〓等不〓〓終る其〓跡祕密に屬して世に公ならずと雖とも或は太子を更るか或は自から位を〓はんとするの意志ありしものの如し此急報の北京に達するや醇親王は袂を投して蹶起し直ちに馬に跨りて熱河に向ふ騎士の從ふ者僅かに六名のみ途に〓順に〓〓〓して北京に還りたり此等の事よりして同親王の武名世に顕れたり」明治帝幼冲なるが故に咸豊帝の后妃慈安慈〓の東西両太后垂簾して政を聽き就中兩太后は〓〓の聞え高く万機の實權は西太后の手に在りと云へり」同治十三年我明治七年帝疱瘡を病て崩ず子無し是に於て帝位を承くべきの人撰論起る淸朝の帝王即位法には血統の高き者にして〓き者の後を承ることを許さざる事あるよしにて惇、恭、醇等の諸親王は叔父の身を以て姪の後を承くべからず故に新帝其人を求るは諸親王の子即ち同治帝の從弟中に於てせざるべからず先づ順序を以て云へは惇親王の子此撰に當たるべき筈なれとも惇親王は是より以前に道皇帝の第一皇子即ち咸豊帝の兄にして同治帝の伯父に當たる者の後を承け長上の地位に立つ身分なるが故に其子として同治帝を父とすべからず依て一次を下り恭親王の子戴澂帝位に登るべき順序と爲りたり然るに恭親王の弟醇親王の妻は攝政西太后の妹にして男載■(さんずい+「恬」)を生めり載■(さんずい+「恬」)は即ち西太后の姪なり依て即位法の外面より見れば恭親王の子こそ帝位に即くべきものなれと思ふにも拘はらず何等の理由ありてか順を越えて醇親王の子載■(さんずい+「恬」)年甫めて五歳にして帝位に即けり即ち今の光緒皇帝是なり此時よりして恭、醇兩親王の間柄頓に冷淡となり時に反目の事ありとの風説あり」恭親王が支那政府の權力を握ること今に廿餘年軍機大臣にして総理衙門の首坐を占め内外の政務一も與かり知らざるものなし殊に外省に在りては東洋隨一の豪傑と稱せらるる李鴻章と相親しみ諸省の総督巡撫等を始めとし苟くも外事に關して重要の地位に在る者は大抵皆恭親王李氏の知人朋友ならざるはなし故に今日に至るまで海陸軍擴張の如き外交談判の如き臺灣事件の如き朝鮮事件の如き安甫事件の如き凡そ重大なる外交政略に關するものは恭親王李氏の意見に出てざるものなし而して恭親王李氏等は兼て外交上平和主義を主張し决して妄りに外國と〓を開かず然るに今帝の生父醇親王は頗るこれと意見を異にし老將左宗棠等と相親み武断慷慨の説を唱へて目下支那政府の優柔不斷の政略を悅ばず動もすれば兩党相軋轢して爲に施政の方向を控掣し特に龍頭蛇尾の〓畧を見ること多しと云へり」然るに今恭親王以下が樞密の政務に參與する軍機大臣の重職を罷められたるの報道あるは事体甚た容易ならざるなり恭親王等は唯軍機大臣の職を罷められたるのみにして総理衙門の王大臣たるの職は尚ほこれを失はず依然外交の局に當たり得るものか〓しは総理衙門の職をも併せてこれを失ひたるものか電報の文面のみにては我輩これを判斷すること能はず免職は恭親王等の身に關するのみの事にして天津の李鴻章は恙なきや否や我輩又これを判斷すること能はざるなり然るに顧みて恭親王等に代り軍機大臣たりし人々を見るに我〓〓〓の狹き未だ其人物を詳かにすること能はず禮親王は其名を世鐸と稱し是迄宗人府宗正の職に在りて別に外國人に名を知られたる程の人にあらず戸部尚書額勒和布(蒙古人)、工部侍郎孫毓■(さんずい+「文」)の如きは最も我輩の耳に熟せざる姓名なるを以て固より其人物の如何を知ること能はず戸部尚書舊閻敬銘は嘗て山西地方饑饉の時窮民賑恤事務の委員と爲り其處置宜しきを得たりとの評判ありたる人にて未た其他の事を詳かにせず刑部尚書張之萬は有名なる山西の巡撫張之洞の兄弟にて我輩其名を知らざるにあらず但し張之洞は先年琉球事件談判の際日本伐つべしとの激論を主張して大に我輩日本人の耳を聳てたる以來我輩が熟識の人物なりと雖とも張之萬の如きは果して兄弟同主義 人なるや否や是亦我輩の詳かにせざる所なり而して爰に一事の不審至極なるは彼の醇親王の名にして今回の電報に漏れたること是なり恭親王に反對して■(ひへん+「赫」)々の威權ある者と云へば醇親王たることは飽くまで世人の知る所なり然るに今恭親王其職を罷められて直に醇親王の現はれ出てざるは如何不審至極と云はざるを得ざるなり然れとも支那の法に今上皇帝の生父たる者は政機重要の職に在ることを許さず盖し漸を防き偏重を制するの主意なるべし故に今回の更迭の如きも生父たる故を以て態ざと表面に現はれず禮親王を以て傀儡に充て己れは其糸を引くの人と爲りしか或は又皇帝西太后等と席を接し軍機大臣の上に立て別に万機に與かるの人と爲りしか此邊は總て後報を得るにあらざれば目下我輩の知ること能はざる所なり

以上は唯我輩が知る儘を列記して讀者諸君の參考に供するまでのものにして必ず事情の盡さざる所甚た多々ならん今日以後も報知を得るが儘に報道を怠らず諸君と共に此重要事件を輕々に看過することなかるべきなり