「戸主の徴集猶豫を廢すべし否らざれば戸税を課すべし」
このページについて
時事新報に掲載された「戸主の徴集猶豫を廢すべし否らざれば戸税を課すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我日本社會に於て戸主と唱ふる一種の人種あり何をかこれを戸主と云ふ、一家の主人として家政を指揮するの人を云ふか曰く未だ必ずしも然らざるなり何となれば戸主にして十七八歳の未丁年男子は愚か未た三四歳にも滿たざる小兒あればなり、左あらば一家屋の所有者たる人を云ふか曰く未だ必ずしも然らざるなり何となれば日本國内に一の住家を所持せず一の倉庫を所持せず唯纔かに他人の家を借賃して在りながら嚴然一家の戸主たる者あればなり、左あらば一家族の衣食住を供給し其生計維持の大任を負擔するの人を云ふか曰く未だ必ずしも然らざるなり何となれば戸主にして他人の門下に寄食し一族の扶助は勿論己れ一身の衣食すら尚ほ且つ自から供給すること能はざる者あればなり、左あらば妻の夫たり子の父たる人を云ふか曰く未だ必ずしも然らざるなり何となれば妻もなく子もなく天地の間に己れ一人の外身に一累なき者にして戸主たる者あればなり、左あらば一家の財産の所有主たる人を云ふか曰く未だ必ずしも然らざるなり何となれば家中に在る所の地券も公債證書も會社の株券も家屋の讓受證書も悉皆家内老幼者の所有にして折角の戸主は身外無一物の人あればなり此例は商人社會に於て最も多く見る所とす果して然らば日本の社會に戸主と稱するものは何樣の人なるやと問ふ者あらんに我輩は唯戸主即ち戸主なりと答るの外に簡明の解説なきを恐るるなり
近頃我日本全國人民の注意を喚起したる彼の徴兵令第十七條に戸主は徴集を猶豫すとあり而して此戸主なる者を按ずるに必ずしも一戸一家族の主人たる人を指すにあらずして戸籍帳簿上己れの姓名の上に戸主と肩書ある人なれば徴集猶豫の特權を有する者なりと定めたるかの如く然り何の理由によりて戸主に限り其徴集を猶豫するやと尋るに我輩未だ其意の在る所を確認する能はすと雖とも尋常一樣の理論を以てこれを判斷するときは戸主即ち一家の主人たる者は家内の老幼を撫育するの重任ありて一家督此人に頼て生命を維持するを得ることなるに直ちに此人を取て軍事に用るに於ては仮令護國の具は完備するも折角の國民は凍餓の中に展轉して保護の實利を享ること能はず其結局の成果を見れば國を護るがために兵を作るにあらずして兵を作るがために國を傷ふの不幸あらんことを恐るるがためなりと云ふことを得べし
果して然らば一家の主人となり家内老幼の扶助を其一身に負擔するの人なれば徴兵令に所謂戸主なる者にして徴集猶豫の特權を有するやと尋るに又决して然らず仮令老幼の扶助を一身に負擔し其職務上に於ては嚴然たる一家の主人なりと雖とも戸籍帳簿上に於て其人の性質分家の戸主か絶家廢家再興の戸主か又は附籍の戸主なれば戸主は戸主にても徴集猶豫の特權を有するの戸主にあらずとせり斯る次第を見て推測するときは戸主をして徴集猶豫の特權を有せしむるは必ずしも一家の生計を負擔して其家族中に無かるべからざる人なるが故に立國に必要なる血税義務の重きをも顧るに遑あらず當分これを猶豫すべしと云ふ主意には限らざるものの如く然り徴兵猶豫の範圍内に在る本格の戸主にして親もなく子もなく家産裕かにして筋骨逞しく獨立獨行白眼に他の世上の人を看る者ある傍に一家の務に任し老幼者の依倚する杖柱たる身分にして唯分家附籍再興の戸主たる故を以て獨り血税の義務に服して家を顧ること能はざる者あるは我我の常に見聞する所にして社會の一奇相なりと云ふべきなり抑も日本國民たるの性質上よりこれを論し本格戸主と變格戸主と兩者の間に何の差異あるや本格戸主の所持する土地家屋には課税ありて變格戸主の土地家屋にはこれなきか、本格戸主の從事する諸種の營業には課税ありて變格戸主の營業にはこれなきか、本格戸主の消費する酒煙草には課税ありて變格戸主の消費する酒煙草にはこれなきか、本格戸主が營業上の證券には印税ありて變格戸主の證券にはこれなきか、本格戸主の訴状には印紙貼用を要し變格戸主の訴状にはこれを要せざるか决して然らざるなり凡そ國民國に奉するの義務責任に於ては彼此同一樣にして兩者の間厘毛の差異あるを見ざるなり然るに兵役に服するの一義務に關しては彼の本格の戸主と唱る一人種に限りて其責任を卸すに遲遲猶豫する所あるは何ぞや
按するに戸と唱るものは封建政治の遺法なるべし封建世祿の時代に在りては武士たる者戸あれば祿あり祿あればこれに凖する兵役ありて馬幾匹槍幾本の用意なかるべからず而して此祿を食み此兵役の責に任する者は戸主一人にして他の與り知る所にあらす所謂厄介居候と稱せらるる人人に至りては家内無用の贅物にして公に私に何等の責任をも負擔することなし劍を學ぶも書を讀むも農に歸するも僧と爲るも自己の勝手次第にして法のため■(てへん+「檢」の右側)束せらるることなし其生存死亡以て國家を輕重するに足らざる一種特別の人種なりしなり故に斯る時代に在りては戸主の身分と附籍厄介人等の身分とは甚しく相懸隔したるものにして互に混同せざるを必要としたりしならん然れとも明治今日の日本に於ては戸主附籍人等を區別するの制度なく又これあるを要せす人民の權利義務上に於て毫も多寡輕重の別あることなし盖し今日の制度に於ては日本全國戸の稱呼ありて其實なき者と云ふべきなり實なきの稱呼を保存して其所有主に血税猶豫の特權を付與するは道理上に於ても亦實際の便益上に於ても完全なる所置と云ひ難かるべし
以上の理由なるが故に我輩は自今日本國内に戸の稱を廢し戸主と唱る者に限りて徴集猶豫の特權を與ふるなからんことを希望するなり然れとも現行制度の如く戸主の稱呼を存し徴集猶豫の特權を與ふるを以て甚た便利なりとするの輿論ならんには我輩又強ひて制度の改正を主張せす退て一の新法を定め戸主に限りて徴集猶豫の特權ある代りに戸主に限りて又毎年若干圓の戸税を納れしめんことを欲するなり明治十四年一月一日の調査に據るに全國の戸數七百六十三万〓此内にて徴集猶豫の特權を有するの戸主大數七百万とすれば一戸一圓の戸税にて七百万圓、二圓にて千四百万圓、三圓にて二千百万圓づつ年年■(「状」の左側+「又」)入し得べき計算なり一年二千万内外の金を取て〓〓に〓〓の軍費に加ふ兵備擴張决して難事ならざるべし然れとも我輩は〓戸税をして強迫税の性質を帶ばしむることを欲せす故に戸主にして若し納税を厭ふ者あらば徴集猶豫の特權を永世返却し同時に納税の義務を卸し得るの規則に定めんことを希望するなり