「支那政府の更迭並に安南事件」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那政府の更迭並に安南事件」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那政府の更迭並に安南事件

支那政府軍機大臣の更迭事件に關しては我輩これを四月十四日の時事新報紙上に於て聊か知る儘を列記し取敢ず讀者諸君の參考に供し尚その後も引續き報道を得るに從ひ常に登報することを怠らずして諸君と與に此重要事件の如何に成行くかを注察し居たるに爾來四週日支那より來る所の報道は略々之を知悉する機會を失はざるを得たり尤も支那政府中の事は其情を詳にする能はずと雖とも今日まで外面に顯はれたる事實を以て推考するに今回支那政府の任免革職等は實に一部一省の變動に止まらずして北京にある支那政府全体の大更迭と申すべき者なり左れば此更迭の波瀾を受けたるは獨り軍機處大臣衙門のみに非ず又獨り總理各國事務衙門のみにも非ず上は宗人府を始めとし軍機處、総理衙門より六部、三院、九卿、三法司皆一齊に更迭し、其趣は英米等にて行はるる政黨内閣の更迭よりも尚且つ甚しき者あり盖し西洋にて例へば保守黨失敗して改進黨これに代はるとせば政府一切の長官は皆殆んと變動すべしと雖とも其變動は唯行政部にのみ止まりて他には左程の關係無きことならん然るに今回支那政府の更迭に至りては變動の影響の行政上に及びたるは勿論、その他司法に立法に軍事に皆波及せざる所なきなり第一に皇族一切の時■(わかんむり+「且」)を掌る宗人府には醇親王故の如く宗令を兼ね恭親王は左宗正を免せられて〓親王これ代はり〓務を賛理し百僚を統率する軍機衙門大臣には宗人府の右宗正禮親王を始めとし又外交事務を管理する總理衙門大臣には同しく郡王■(ぎょうがまえ+「卸」の左側)貝勒奕〓を始めとして諸大臣各々その撰に中り又京外の分職敍任黜陟を掌る吏部の如き、土田戸口財穀出納を掌る戸部の如き、吉凶の儀式學校貢擧の法を掌る禮部の如き、京外の武職撰簡軍責を掌る兵部の如き、器用材物營造疏鑿を掌る工部の如き(工部尚書の姓名は未た詳かならず)、國史〓籍制誥文章の事を掌る翰林院の如き、内外藩の政令を掌る理藩院の如き、官常を察覈し綱紀を整飾する都察院の如き、或は平反重辟の事を掌る大理寺の如き、或は京外の章奏を達するを掌る通政使司の如き、又或は閲兵大臣の如き、総管内府大臣の如き、八旗都統、前鋒統領、護軍統領等その他文武の所官衙殆んと皆革職轉補等の事あらざるはなく而して之が上に立て軍機處に出入し皇帝幼年の間万機を補佐すべき重任を受けたるは今上光緒帝の生父醇親王奕■(ごんべん+「環」の右側)にして就中此一事は支那内外文武の政略に至大の關係を有つが如く思はるるなり

右の如く支那政府今回の更迭は實に尋常の事相に非ざるを以て舊政府の政略と新政府の政畧とも正に須らく反對して甲若し和平主義を持せしならば乙は主戰主義に出つべきは實に相當の順序なりと思はるるに新政府は未だ何たる果斷の政略を布告することもなく唯依然たる舊政府の跡を受け坐して事を待つものの如し是れ我輩が始めには更迭の過大なるに驚き尋て政略の變異なきを見て又再度の驚駭を喫せし所以なり夫れ前任恭親王等が安南事件に關し佛國に對しては先づ和平主義に類似したる政略を執りて和戰の兩端を曖昧模稜の中に出沒させたること故これが後を受けたる醇親王禮親王等の人々は公然たる主戰政略を持し黒白反對の方向に赴くべきに其實は然らずして前政府と轉た相依り相似する趣を察するに今回の更迭は和戰の爲めに生じたるに非ずして唯、恭醇二親王及びこれに党する両派の軋轢の久しく結んで發せざりし者が今回の安南清佛交渉事件の機會を得て頓に發裂し二十餘年來政府の樞機を專らにせし恭親王の一党と同しく二十餘年政機に與聞するの勢力を掩はれし醇親王の一党とが一は退き一は進み而して特に醇親王は今上の生父なるを以て万機攝行の大任に當りたることならん歟若し然らずして今回の更迭は主戰戰略を實行するが爲めなりしと爲さば彼の恭親王と與に多年政機に當りたる天津の李鴻章も同く罷免せらるべき筈なるに彼は目下北京の總理衙門とは何かの徃來文書ありて其册日に積んで寸を成すと聞けり又久しく前軍機處に在任せし李鴻藻の如きは豫て主戰論者の一人なりと聞えたるに却て其任を奪はれたるは不審と云ふべし又支那政府が果して佛國に抗戰せんとする决意の色あらば北京に駐在する英米両公使の如きも豈に容易に北京を去らんや然るに英公使「パアクス」氏は朝鮮國に領事舘設置の爲めとかにて「アストン」「ヒリール」の二氏と與に上海より仁川へ向ひ又米公使「ヨング」氏も領事舘巡視の爲めとかにて同く上海より香港へ赴きたる由なり盖し此兩公使は嚮に清佛の間に入りて仲裁和好の媒ちを爲すならんと風説せられし人なるに今や支那内閣更迭の際に容易に北京を去り急に歸裝を促すの氣色なきを見れば目下中裁講話の沙汰も立消えに歸し去迚又支那政府が佛國に公然戰ひを指向くるの恐れもなき實情在て存するものの如く然り左れば今回の更迭大なりと雖ども佛國に對しては先づ殆んど影響する所なく、私好にも近寄らず開戰にも近寄らず唯其中間に依違逡巡して只管佛國よりの申出して待つに相違無からん果して然らば此疑問の落着を决するには新任佛公使「パテノートル」氏が不日北京に進入するを待たざる可らざるなり「パテノートル」氏が北京に入るの日は夫れ安南事件落着の時ならん歟