「佛蘭西支那両國間の和約成る」
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本文
佛蘭西支那両國間の和約成る
去る十二日清國天津發の電報に東京の葛藤落着し條約調印も濟みたり償金要求のことなしとあり又同日英國倫敦發の電報に清佛両國間に和好の條約成り佛國は東京及び安南の管理權を握り清國は雲南、廣西、廣東の三省を貿易のために開き償金の要求はなしとあり又天津よりの後報にカピテン、フールニエー佛國政府の訓令を奉し李鴻章に天津に會し五月十一日を以て私好の條約を議决調印したり其條項は
第一 佛蘭西政府は雲南、廣西、廣東の諸省と通商の關係を制定する全縣を有すること
第二 支那政府は東京及び雲南全部の管理權を佛蘭西に讓り渡し東京雲南の邦域内に於て斷然總て其責任を棄去るべきこと
第三 佛蘭西は支那より何たる償金の支拂をも要求せざること。
第四 支那兵は直ちに東京を引拂ふべきこと
以上の和約三日間の談判にて完結したりとあり此等の諸電報を參觀するに去年以來世人の視聽を〓動したる東京讓〓に關する清佛の葛藤も一應その局を結びたるに相違なきが如し
和約第一條の支那が佛蘭西に對し雲南、廣西、廣東三省を貿易のために打開くとの事は如何なる方法を以てするものか未だ詳かならずと雖とも從來の如く旅行券を乞ひ受けて僅かに内地の都會に到るを得るの不便を改めて更に寛大便利の方法を設くべきや論を俟たず仮令三省全体殘る處なく打開きて自由貿易の用に供することなしとするも三省内重要の都會幾箇處を限りて貿易市塲并に佛國人居留の地と爲し此等の諸市塲間を往來するの道路河川は安全平通の公道と爲し十分に兩國間の貿易を進捗せしむる位の方法は必ず設けざるを得ざるものと信するなり果して然るときは佛領東京の紅河を溯りて雲南に入り北寧、郎松路を北に進て廣西に入り三角洲の沿岸を航して廣東に徃來するは勿論或は廣東府畔の珠江を溯りて廣西に入り或は支那第一の運路たる楊子江を遠く溯りて搦手の方より雲南に入る等総て差支なきことならん而して支那現行の各國條約に依るに一國に讓與する所の權利恩惠は必ず他の國々にも讓與すべしとの無限優待の約束あるが故に今回佛國人の南清三省の通商權を確定したる和約は取りも直さず英國、日耳曼、魯西亞、米國等諸外國人の通商權をも確定したるの和約たるべし佛人徃き英人徃き魯米人徃く南清三省外國貿易の繁盛は今より日を期して待つべきなり
和約第二條支那は東京并に安南全都の管理權を佛蘭西に讓與し其地内に於て一切の責任を免かれたり此一事は今回清佛葛藤の骨髓にして一年有餘の兵馬騷擾も唯此地方を清佛孰れに取去らんかの爭なりしのみ然るに今日に至り已むを得ざるの勢に迫られ尺土寸壤を餘すの計にも及ばす爭地の全部を擧けて之を敵人の手に委したるは支那政府の遺恨想見るべしこれを想へば我輩局外の日に至るまでも爲めに其恨に泣かんとするなり今更悔ひて返らぬ事ながら去年の今日頃に當り支那政府にして佛國の要求する儘を容れ、紅河を以て清佛兩國の境界と定め三角洲の全部をも併せてこれに讓與するの决心ありたらんには其榮譽と實益を損すること今日の如く甚しからずして止みたらんものを腹中一物なく終始唯虚喝一法を以て重大の外交事務を處し遂に今日の耻辱と損失とを取りたること自業自得と云ふべきのみ然れとも我輩退いてこれを思ふに支那政府が今回の失策は頗る其愚を極めたるが如き形跡ありと雖とも亦大に恕すべき所なきにあらず盖し今日の愚はこれを前日に誘ふものありたればなり何をかこれを前日に誘ふと云ふ曰く一昨年の朝鮮事變是なり讀者諸君の記憶せらるる如く朝鮮は支那の自から稱して中國の屬邦と爲すものにして其關係安南東京に異ならず一昨年の夏京城の日本公使館襲撃の變に際し屬邦の不埒は宗國自から其懲罰の任に當るべしとの意にて突然軍艦陸兵を派遣し京城内に屯營して四門を警固し詐て謀主大院君を拘致し去るなど其擧動の勇々しくして活溌なる决して前日の支那政府にあらず爲めに世界の耳目を驚かして大に其名譽を回復したるの跡ありしは甚た著明の事實なりき故に安南論の起るに際しても支那政府亦必ず竊かに心に思ひしならん朝鮮の先例其好結果既に斯の如し彼の佛國人胡爲者ぞ亦與みし易きのみと依て又例の虚喝を以て八方に當り殷雷の音遠く山嶽に響き掣電の光近く雲間に迸り一日は一日より強く一刻は一刻より近く東西諸國人心恟々只管佛國人の爲めに其不幸を歎せしめたり然るに何ぞ圖らん佛國人の剛愎なる電光目を遮るに足らず雷聲耳を驚かすに足らず悠然安南全土を席卷して他を顧みず行々且つ支那本地にまでも浸入せんとす爰に至りて支那政府も始めて其策の非なるを悟ると雖とも嗚呼又既に晩し覆水再び盆に還らざるなり而して誰か此盆水を覆さしめたる者ぞ一昨年の朝鮮事變に此愚を啓きたりと云はざるを得ず
和約第三條佛國は支那より何等の償金をも要求せざるべしと云ふは至極當然の事なるべし元來佛國の欲する所は金を得んとするにあらず又海南、台灣等の島地を得んとするにもあらず唯東京江河沿岸の地を占領し流を溯りて雲南に入り中に埋沒する所の遺利を拾はんとするに在るのみ然るに今東京安南の全土を領し雲南、廣西、廣東までも貿易徃來の自由を得たる以上は此と償金を要求して無用の議論に日月を消費することを好まず依て斷然償金を要せずと證言して敵人を安堵せしめたるも外交策略中の一妙法なりと云ふべきなり
和約第四條支那兵は直ちに東京を引拂ふべしとあり其土地を讓與したるからには其地を立去ること固より當然の順序にして別に解釋を要せず恐喝事成らず三軍旗を卷て北に還る實に不外聞の至りと云ふべし
以上記載する如く本月十一日天津の條約に由て清佛の和睦成就したり両國の爲め慶賀これに過ぎざるなり然れとも我輩は此條約を見て支那南境の憂を根治したりと評することを得ず何となれば東京紅河の上流には彼の黒旗党の蟠踞するあり此剽悍なる野武士は十分に支那政府の命令を遵奉する者にあらざるが故に今日以後佛國人の雲南、廣西に徃來する者を其途に要し毫厘の損害を加ふることもあらんには東京鎭台の佛軍は直ちに其賊巣を衝てこれを懲罰するならん賊兵の打泄らされたるものは竄れて雲南、廣西の地に入るならん賊兵の在る處即ち佛軍の徃く處にして境を踰へて他人の土地を蹂躙するも巳むを得ざる事なりとして顧みざるならん是則ち我輩が清佛第二葛藤の報を聞くの時期なりと知るべきなり支那政府も亦多事なるかな
本文一篇を起草し了りたる跡にて本月十三日佛國巴里發の電報(雜〓にあり)を落手し清佛和約に關して一層詳細の報道を得たりと雖とも本篇の趣意に影響する程の新事項なきが故に別に此草稿を改むることなし讀者諸君幸にこれを諒せよ