「支那是より多事ならん」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那是より多事ならん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那是より多事ならん

東京事〓と稱する清佛間の一紛議は昨年〓秋の交より其〓〓〓高きを加へ時に〓緊なきに非すと雖とも絶へず吾人の耳〓〓〓れ〓日に至ては〓其〓度にも盡せんとするの調子なりしが既に一昨日事の〓上〓〓〓〓〓〓如く〓〓〓〓〓し〓〓〓〓〓〓〓〓を代表し〓〓〓フルニエー氏に天〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓して〓〓〓〓を取結び各之に〓印〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓抛擲して其兵隊を引拂ひ両廣雲南の三省を開て之を佛國の通商に供し佛國方にては軍費として償金を清廷に要求することを〓するに在るが如し此條約たるや東京事件のみに對しては之を完結せしむるの効能あらんと雖とも清佛未來の交際に對しては其をして益紛糾を加へしむるものにして支那方より見れば佛國に向て新に一大關係を開きたるの觀なきを得ず抑も此両廣雲南の三省は支那帝國西南部の要衝にして北京を去ること最も遠く土沃にして河流〓し金銀銅〓其〓〓々の産物に富みたるは人の能く知る所にして固より喋々を要せずと雖とも今讀者の便を謀り三省風土の大要を摘んで左に之を略〓せん

 廣東省 本省は支那の最南部に在りて南は海に瀕し東北は福建省に接し西北は廣西に界し北は江西、湖南に連り土

壤沃衍、物産豊饒、河水縱横して舟舶通せざる所なく人口一千九百十七万餘にして其人勇壯進取の氣あり九府、七州、七十八縣と直隸〓三、直隸州四ありて出す所の土産は米、茶、棉花、砂糖、〓材、玉石、鉛、鐵、魚塩等を首要とす

 廣西省 本省は支那の西南部に在りて北は湖南貴州に接し東南は廣東に抵り西南は雲南安南に界す東北の二境は峻峰天然の固を爲し■(さんずい+「難」)江西より東に走て支流恰かも繁枝の如く水路百數十里流に沿て遡■(さんずい+「回」)す可し省内山林環繞して五穀能く蕃衍し山中の蠻民は酋長之を統率して徃々乱を唱ふることあり而して其安南の邊疆に至れば猖獗尤も甚し人口七百三十一萬四千餘にして府十一、直隸州二、〓一、州三十七、縣四十七、其産物は金、銀、銅、鐵、寶石、桂皮、木材等を首要とす

 雲南省 本省は支那の西南隅に在りて東は廣西貴州に接し北は四川に界し西は西〓緬甸に抵り南は〓〓老■(てへん+「過」)安南に連り北境は山多く南方は原野多く其土は上の上其産は金、銀、寶石、山は點蒼、青龍、玉龍を以て高しとし、水は則ち金沙、瀾滄、■(さんずい+「路」)を以て大なりとす人口五百五十六万、府十四、直隸州四、州二十六、縣二十九ありと云ふ

右は両廣雲南三省の風土畧記に過きずと雖とも此三省の土沃に産物に富み之に加ふるに舟舶の利を有して共に貿易の要域たるを知るには充分なりと信ず然るに今清廷にては此要域を押開て之を佛國の通商に供せんとす而して其之を開くの方法に就ては我輩未た詳報を得ざるが故に大に開て自由自在に通商せしむるの意か、將た少しく開て聊か從來の制限を寛にするの目論見か、固より之を知るに由なし且つ既に佛國の通商を許す以上は諸條約國に向ても亦之を許すことならんと雖とも兎に角三省の通商門を開くは全く佛國の手柄なれば〓〓第一の功は佛國に歸し他の諸條約國は〓して通商の利を受くるの代りに佛國に對しては自から一歩を讓るの意味もあることならん乃ち三省の通商權を得るは佛國の通商上に非常の便益を與ふると同時に支那の商政にも亦一大影響を及ぼすこと必然にして清佛通商上の關係は今後益繁多ならざるを得ざるなり又〓に一歩を進めて政治上より考ふるに清廷既に東京の管理權を抛擲して其兵〓〓引拂ふ以上は雲南は〓し〓沸國の保護國なれは〓〓〓〓の〓人〓〓〓雲南人に非ずして〓〓〓〓の〓人なり〓〓〓〓〓〓に〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

る所にして不逞の徒動もすれば所在に〓集し王綱の解弛に乘して竊かに禍亂を煽することあり佛人にして若し暗に其勢を助け既に投するに薪を以てし亦隨て之を煽動することもあらは無智の頑民爭ふて起り逮捕〓なれば境を踰て逃れ安南を以て逋逃の〓藪と爲し其勢殆んと底止する所なきに至らん是時に當ては其總督巡撫等も亦手を下す所なくして轉た其禍根を深うし支那の西南、白日晦冥、悲〓野に満ち凶梟聲惡しく北京見へず人をして愁へしむるの觀を呈することともならん

我輩は徒に奇想を書くものに非ず世人若し此に疑あらば支那の近事を引き來て其然る所以を論せん蓋し今の清朝は北より起て朱明を亡し鼎を北京に定めたるより南方の撫御弛み易く一統以降二百廿有餘年、其間復明の義を唱ふる者には張名臣、張惶言、邸成功等あり馬明心は回々教を以てし劉之恊は白蓮教を以てし各兵を擧けて乱を作すと雖とも常に北部に於てせずして必ず南方に鴟張し近時長髮賊の乱の如きも亦廣西省より起りて漸次北進したるものなり抑も此長髮賊なるものは廣西の人洪秀全の創唱したるものにして道光の末に兵を起し咸豐年中尤も猖獗を極め十六省を蹂躙して居を南京に占め太平天國と稱して殆んと清朝を亡ぼさんとしたる者にして支那各省の浮浪互に相煽乱したりと雖とも終始其事に與りたる者は孰れも廣東西の人にして洪秀全自から天王と僭號するの後、楊秀清を東王、蕭朝貴を西王、馮雲山を南王、韋昌輝を北王、石達開を翼王、洪秀全を天徳王に封したれとも此六王は皆な廣西廣東の人のみなりしと云ふ是に由て之を觀るに両廣雲南等支那の南部は皆な是れ禍乱の搖籃にして動もすれば輙ち其乱階を開かんとするの勢あること必然なれば若し暗に之れが〓援を爲すものにてもあらば由々しき大事を惹き起さしむること掌を反すよりも易かる可し盖し廣内の髮賊、雲南の捻匪等が遂に其志を達せざりしは唯其軍器糧仗の給せざるに在りたるなれとも若し道を安南に〓り紅河の流を利用して軍器糧仗を轉援し徐に其鋒を北向することを得ば其勢實に測られざりしならん沸國にして望蜀の念なくんば則ち巳む、苟もこれあらば北京政府は今後亦枕を高うす可らざることともならん

又兼て安南に虎踞して支那兵と共に佛軍の敵手たりし黒旗兵は清佛の和成るを聞き首を低れて其跡を歛むるか、或は騎虎の勢にて尚其抵抗を持續するか、固より豫知す可らずと雖とも支那兵果して東京を引拂ふに至らば彼れ〓義、莊なりと雖とも孤〓援なきを奈何せん或は其徒と〓〓して〓〓〓來まで韜晦するか、或は佛國の待遇次第にて〓て其爪牙と爲ることもあらん〓ふに王化の及はざる所、奇〓〓〓の民其志を得ざるに〓〓、僅か〓〓大〓し〓〓を以て自から〓〓〓〓〓もあらん、或は〓を〓て〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓する〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓する雲南廣西の邊疆は竟に其れ如何ぞや今や東京事件と稱する一紛〓漸く其緒に就きたるが如しと雖とも早〓又雲南事件と云へる一問題の我輩の耳朶に觸るることもあらんか