「著書、新聞紙及び政府の效力」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「著書、新聞紙及び政府の效力」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

著書、新聞紙及び政府の效力

各自の思想を文字に寫して之を衆人に示すの方法は固より一にして足らずと雖とも著書新聞紙の二者は就中最も著しきものならん著書新聞紙其效二あるに非ずと雖とも稍其趣を異にする所あり盖し新聞紙は時に居て時を語るものなり直接目前の利害を説くものなり一時の眼を以て一時の事を抑揚褒貶するものなり新聞紙の所論は斯く時事に切にして且同一事に幾千万の眼に〓るるが故に讀者を感せしむることも亦頗る緊急にして一柵の短文も全社會の人をして喜笑怒罵せしむることを得べしと雖とも論と事と皆な一時に限るが故に時過くれば感觸も亦漸く烟散して永く其痕跡を留むることなし故に新聞の效驗は人心に感すること速なりと雖とも之れに入ること淺からざるを得ず著書に至ては之に異なり著書は其所言長日月間に渉るが故に考證は極めて精密ならんことを要し文字は極めて妥當ならんことを求め片言隻辭も亦之を苟もせず之を彼の立談の頃に起草して時を刻して脱稿するものに比すれば固より同日の談に非ず唯其所言必ずしも時事に切ならざるが故に之を朗誦して快を一時に取ることを得ずと雖とも讀者も亦豫め覺悟して輕々に之を看過せず叮寧反覆眼、紙背に徹して著者の深意の在る所を發明することを勉むるが故に一旦人心に深銘すれば爲めに其畢生の心事をも左右することを得ん左れば著書の效驗は人心に感すること新聞紙よりも遲しと雖とも其心底に根入するの深きは新聞紙の企及する所に非ざるなり

又政府の性質は如何なるものぞと尋ぬるに社會中の最有力者にして朝に一令を發して萬人喜び夕に一命を下たして全國恐る、文武刑政百般の事務これを抑揚するの機は皆其掌中に在て存せり一擧一動自由自在にして心に得て手に施し嘗て他の掣肘を受ることなし其效力の活溌迅速なるは固より新聞紙の及ぶ所に非ず著書の如きは比較するにも足らざる程のものなりと雖とも又細かに其裏面より一方の實相を窺へば或は然らざるものあり盖し政府の命令はよく人の喜憂を制すと雖とも是れ唯命令を發布したるの際に止まりて之を屡すること能はざるが故に天下の人心其命令に從ふの後自然に習慣を成すときは命令に從ひながら人心は恰も自動の姿に變して却て政府の力の所在を忘るるが如きの事相を呈することあり左れば著書と新聞紙と政府と三者各其人心を動かすの勢力に就て品評を下たすときは政府の力は活溌迅速にして外形に見る可しと雖とも其形に慣れて心に忘れらるる弱點なきを得ず

既に前段に陳述せし如く新聞紙は人心を感せしむること淺しと雖とも之を動かすこと緊急なり著書は之を動かすこと遲緩なりと雖とも其人心に銘するや甚た深し故に著書新聞紙は直接に人事を動かして自由自在に之を支配するの力に於ては固より政府に比較するに足らずと雖とも不文の人の想像するよりも其力案外に強大なるが如し不文の人の習として動もすれば著書新聞を無力視し著書能く言ひ新聞紙能く論すと雖とも畢竟空言徒論のみ抔と思惟するものなきに非ざれとも著書新聞紙は人心を動かすの點に於て之を屡するの利益あれば决して無力視することを得ず凡そ人心を動かすは之を屡するに若かず試に彼の頑固一偏の守錢翁を見よ人ありて金を借らんとすれば彼れ常に之を力拒して容易に其求に應せずと雖とも再三懇請手を換へ品を換へ情實を〓して巳まされば〓も漸く其請を容して爲めに括嚢を繙くことあるに非ずや又彼の血氣の少年が爐〓に對坐〓〓豪傑談を談し夜〓復〓等の來歴を語りて互に一興を催ふすの際次第に之を欽羨して次第に熱氣を催ふす〓は己れも亦奮て襲撃の別に加はらんと發心し或は具慶の身として生涯に一度は父母の〓を酬るの愉快を得んものをと扼腕するが如き奇談あるに非ずや又更に近く譬を取れば男女の愛情は天然に成るものと爲し父母もこれを強ふること能はず朋友も之を助くること能はず其人々胸臆の再深奧の部分より出てて互に相投合し始めて愛情の本色を成すものなりとは古今世人の信して疑はざる所にして或は宿世の縁と唱へ或は神佛の引合せと稱し或は又婚禮の席の挨拶などには「不思議の縁でござる」と云ふを以て社會の通語と爲すに至りたるが如き総て男女の愛情は自力他力を論せず人力の支配外に在るものなりと認めたるが如し然るに男女交際の實况を顧みれば彼の愛情なるものも左ばかり神變不思議の靈能にあらずして一個普通の凡情たるに過きずとの疑なきにあらず男女始めて相逢ふ固より路人の情のみ再三再四にして漸く相知り相知るに隨て漸く又愛情の切なるを覺え遂に所謂る不思議の天縁を成し比翼連理の眞情を成すに至ること古今普通の大法なるが如し盖し一言以て之を蔽へば男女の愛は之を屡するに成ると云ふて可なるものあらん以上二三の例の如き孰れも皆之を屡して人心を動かすの實證にして其效力甚た大なりと申す可し然るに著書新聞紙は學者の心事を文字に表して之を天下公衆に示し同一の主旨にても十百千回種々の點より之を説きて之を屡することを得るが故に公衆も漸く之を翫味し自からも信し人にも語り口耳相接して不知不識の際に社會の輿論を成すに至る可し輿論即ち天下衆庶の氣風にして著書新聞紙は直に人の形体を左右するの力なきも能く人の心を制するものと云て可なり

前陳の如く政府の實力の活溌廣大なることは今更之を喋々するを待たずと雖とも其中亦自から輿論に順應せざる可らざるものあり而して其輿論なるものは决して偶然に起るに非ず盖し世上百般の事は起るの日に起るに非ずして因て起る所あり淺近の例を取りて之を云はは近時我國にて人力車の行はれたるが如きも其行はるるに先て當に行はるべきの用意ありしこと疑なし又鉄道の敷設の如きも其敷設に先て種々樣々の議論あり其議論漸く一般の輿論と成りて始めて鉄道の實行を見るに至たるなり故に鉄道人力車の成りしは既に成りし今日に成りしに非ずして因て成りし所ありと云はざる可らず左れば彼の輿論の如きも起るの日に起るに非ずして遠く其原因を尋ぬれば著書之を造りて新聞紙之を導きたるの結果ならんのみ而して其既に輿論と爲るに及んでは政府すら尚且つ之に順應せざる可らざるの勢を成すが故に著書新聞紙は固より政府の權勢に比す可らずと雖とも究竟其效力の大なるは不文の人の夢想にも及はざる所のものあるなり著書新聞紙の效力漸く〓に大なりとすれば其事に從ふものも亦之を覺悟して其效力を濫用することなく自から云ふて輿論を造り其輿論の實際に行はるるに及んで却て其失言を悔ゆるが如き輕擧なからんこと我輩の希望する所なり