「到る處の青山我骨を埋むべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「到る處の青山我骨を埋むべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

到る處の青山我骨を埋むべし

男兒の世に生るる須らく大に爲す所あるべし人生七十歳古來稀なる長壽なり大抵は四十五十にして死するを常とし更に又不幸短命なるも少なからず此壽命中より幼穉童年の時期を引去れば人間の生涯中異に仕事を爲すべきの日月は僅かに二三十年を過くべからず實に幻の如き浮世なりと云はざるを得ず苟くも一個の男兒として富貴功名に志あらん者は夜を以て日に繼き汲々事に從はずんば忽ちにして日月逝き悄然獨り其孤影を顧みて轉た老衰落魄の歎に堪ゑざるの悔あるべし

昔時封建制度を以て國を立つるの日に當りては我日本社會の組織極めて窮屈偏頗にして一寸の自由をも許さず士農工商各其事を世襲し格式儀例を異にし賢才能藝恃て以て身を益するに足らず殊に全國を三百侯伯の領地に分割し三百各獨立國の體裁を成して他と相徃來するを要せず冠婚葬祭吉凶慶弔の及ぶ所も一藩内に限り功名榮譽富貴利達の及ぶ所も一藩内に限り一藩の天地外には總て我身上に痛痒を感すべき程の事物なかりしなり人々生誕の地は即ち其生計住息するの地にして兼て又死して其骨を埋むるの地たり、隣保相識る前後幾代、姻家相嫁娶する百年綿々、智者となく愚人となく狹き天地の間に跼蹐して唯先人の遺業を失はんことを是恐れ新たに一事を顧みるに遑あらず當時に於て全社會の耳目を聳動するの事件と云へば麥畦變して菜圃と成り少女嫁して母と成るの類にして他に又人事の波瀾なし故に人々唯其墳墓の地に固着して他を思はず時に志を立て郷關を出る者あるも春燕一般再び又其舊巣を〓ねて歸來するを以て常とし又名譽としたり此時に當りて志士あり蓋世の鴻才を抱き獨り大に爲す所あらんと欲するも天地の間これを施すに道なかりしなり

明治維新三百の小天地を掃て新たに廣き一天地を作り封建時代の制度式例は其痕跡たも留むることなし社會の廣き志士の手足を伸ばすに足り制度の自由なる志士の才識を施すに妨を見ず貴富功名唯其人の欲する儘にして天下の時勢復た有爲の士の蠖屈を許さざるなり是に於てか四方の志士笈を負ひ劍に仗りて各地に輻輳し才を鬪はし能を競ひ身を立て功を成すの道を求むる者其數亦知るべからず實に盛んなりと云ふべし盖し今日の天地は昔日に三百倍するものにして其廣大なる固より論なし天地廣大なれば人事も多く志士が身を容るるの地位に乏しからざるは自然の理なりと雖とも近年文明進歩の速かなると外部の刺衝の強きとに因りて限りある天地に限りなき人才を生し啻に權門を填塞するのみならず餘勢漸く地方に及び日本全國到る處として人才供給の過多なるに苦まざるはなし實に異常の現象なりと稱すべし少小にして學に志し弱冠にして身を立つるの計を爲す者地方に在て事に從はんか父祖の遺産ありて農商の〓を〓〓得る者は格別なれとも然らざる者は巡査、書記、學校教員の外に適當の地位を見出すこと難し都門に在て〓を求めんか官途逼迫餘地を遺さず工商困窮餘藥なし家に餘財ありて坐食し得るの徒は兎も角も自から其才藝に依頼して立身の道を求めんとする者に至りては進むべからず退くべからず鬱陶として日に歳月の逝くを歎するの外に又一策なきものの如く然り

然れとも我輩思ふに志士にして果して爲すへきの才藝を抱き屈すべからざるの志操を具へ斷然意を决して富貴功名を求るの意ならんには未た必ずしも其道なしと云ふべからず既に故山の雲を踏破して都門に出て到る處の青山我骨を埋むべしとの决心ある以上は更に此心を擴め其眼界を遠くし苟くも日月の照らす限り全地球上皆我郷なりとせんも敢て當初决心の主義に反することなかるべし昔日一藩の小天地は變して八十餘州の大天地と成りたり今日日本の小天地變して世界万國の大天地と成るもこれを恠しむに足ることなし東に米國あり南に濠洲あり天地廣濶にして人烟稀少なり志士にして果して徒然に堪えざらんか何ぞ自から此等の地に就て其才藝を施すの道を求めざるや試に彼の英獨等の人民を見るべし少壯の男女にして自から奮て外國に移住する者毎年各十万を以て數ふるにあらずや英獨人民にして富貴を求め得ば日本人民も亦これを能くせん志士にして果して富貴に志あらば米國濠洲路の遠きを厭はずして可なり我々は明治の今日より封建の昔日を顧み當時の志士が才を抱きて伸ばすこと能はずは一藩の小天地に跼蹐して死して亦其名の聞えざるを哀しむなり願くば他日我々の子孫をして今日の我々を顧み尚ほ封建の餘習を脱すること能はず掌大の天地に戀々して齷齪として遂に又老死したり明治の志士も愍れむべきかなと云ふこと能はざらしめば我輩の滿足これに過ぎざるなり