「商標條例」
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時事新報に掲載された「商標條例」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商標條例
今般我日本政府は商標條例を制定〓來る十月一日より施行する旨一昨七日第十九號を以て布告したり商標條例は一國の工商業を維持増進するに必要の法なり今我國にして此條例の制定ありしは實に全國の慶事なりと云ふべきなり
工商の業に從事するの人は社會に向て信を博することを要す人に信ぜられざる工商人は營業の繁昌を致すこと能はず好しや一時社會の耳目を〓着して利を奪ふことを得たりとせんも到底永久に持續すべきにあらず信用なき工商業は决して繁昌すべからざるなり故に工商營業の人は己れの製造し又は賣捌く品物に己れの名を記して其惡劣濫製ならざることを證しこれを使用する者をして安んずる所を知らしめざるべからず是即ち世に行はるる所の商標なるものにして商標は工商人の信を賣るの具にして又需用者のために良品を得るの道を教示するの用を爲すものなり、世の文明未た進歩せず運輸交通の便缺乏して商賣の區域極めて狹隘なる時に當ては社會未た商標の有るを要せず何となれば分業の仕組整頓せず有無交換の區域廣からず衣食住需用の品は大抵皆居村乃至隣村よりの供給を得て事足る如き社會に於て需用者と供給者とは大抵面識の間柄にして常に直接の授受を爲すものなるが故に商標に依頼して信用を確實にすべき程の機會なし次に少しく商賣の區域を廣くし一郡一州一國の人東西遠近有無相通することとなれば商品賣買の際、時に商標の無きを恨むの塲合ありと雖とも一州一國に限れる商賣は廣しと云ふも尚ほ甚た狹きが故に眞實に商標の必要を感するの塲合甚た少なし、然るに外國貿易起り千萬里外遠隔の國々と有無相通するの事始まるに至りて忽ち商標の必要を覺ゆるを例とす盖し平素相知るの度漸く輕小なるに隨て商標も依頼するの度漸く重大を加ふるんなり、啻に商賣區域の擴張に連れて商標の必要を増すのみならず文明進歩して人工漸く精を極め各家日用の諸品を鑑定するに一見直ちに其良否を判別すること能はず眞も僞の如く僞も眞の如く果して眞僞如何を知らんとするには專門の藝術に依頼して頗る鄭重の手數を要することとなるに至て商標の功用甚た著し若し賣る者は商標を以て我品の眞を證し買ふ者は其商標を見て其品の眞を知るの工風なく眞僞混淆賣買の度毎に一々其眞僞を鑑定することならんには到底商賣の繁昌を期すべからず是即ち今の時世工藝精巧を極め商業の區域全世界に廣かるの日に於て商標の無かるべからざる所以なり
古來我日本にも工商業社會に商標の使用なきにあらず酒の正宗醤油の龜甲萬の類の如き是なり然れとも一般に商標を貴重するの念甚た薄く賣る者も商標を濫用し買ふ者も商標に信を措かず眞僞混淆遂に判別すべからざるを以て商標の功用極めて輕微なりし近年外國との貿易漸く盛大なるに至りて人々漸く商標の必要を感しこれを貴重視するの風を成したりと雖とも商標の功用漸く著明なると共に他人の名を盜みて己れの私利を營む不義狡猾の徒陸續輩出し僞造模造の商標を使用し白晝人の財を奪て愧つることを知らざる者少なからざることとなれり彼の石鹸の如き〓嗽に用る〓楊枝の如き巴里製と東京製と外見上厘毫の相違を見ず帽子の如きも亦其一例なり殊に甚しきは壜詰めの麥酒と箱入りの摺附木なり徃々同一の商標にして其品質の甚た相違なりたるものあるは人の知る所なり不審の餘り精細に比較■(てへん+「檢」の右側)査するに其〓〓と云ひ彩色と云ひ全く同一の商標なれとも唯〓中の文字に一二の異同ありて一は倫敦とあるに一は東京とあり一は瑞典とあるに一は日本とあるを以て僅かに其同種の物品たらざることを知るに過きず斯の如き所業にして日本工商業社會の習慣を成し真義減裂賣る者買ふ者共に其適從する所を失ふに於ては全國の工商業は唯退くことありて進むことなかるべし今回商標條例の發行は實に其時を得たりと云ふべきなり
我輩又爰に一言すべきは此商標條例の外國人に及ぶや否やの一事なり固より尋常の塲合に於ては外國人にして商標登録を願出て其專用權の保護を得んと欲せばこれを許すこと當然なりと雖とも今の日本の例は則ち然らず外國人等は治外法權と唱ふる一種奇恠の權利を享有し日本に住居して日本の法律に從ふことを肯ぜず故に例へば外國の麥酒釀造人摺附木製造人の類にして一方には自家商標の登録を日本の政府に願ふて其專用權を保護し貰ひながら一方の私に於ては日本人の所有する製茶生糸の商標を僞造模造し治外法權の蔭に居て罪を免かるるの工風もあるべきなり斯くては折角の商標條例も誠實なる工商業者を保護すること能はずして唯僅かに不正奸惡の無頼漢を庇保するの用を爲すに止まるべきが故に治外法權の存在する限りは商標條例の恩澤は到底外國人に及ぶべからさるものと承知して然るべきなり治外法權の不都合實に言ふべからず内外貿易の繁昌に必要なる商標條例を執行するにさへ忽ち其途に横はるの大障碍たり苟くも貿易の繁昌を希望するの人は内外人の別なく先つ此障碍を除くの工風を求むること至當なるべし