「日本教法の前途如何」
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時事新報に掲載された「日本教法の前途如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本教法の前途如何
我輩は前號の紙上に今日世界の大勢に於て日本にも耶蘇教を流行せしむるの利益なる所以を論したれとも爰に又利害の考を離れて單に事物自然の進歩より考ふるも耶蘇教は終に日本に流行すべき勢あるを見るなり我輩今其然る所以を説明せんが爲めに本論にては今般日本に於て古來の教法なる佛教と新入の耶蘇教とが互に相爭ふときは其勝敗は如何に决す可きやとの一問題を考究せんと欲す盖し佛教と耶蘇教とは永年を期して到底同時に同一の塲所を占領すること能はざる者なれば佛教にして永く今日の地歩を退かざらん乎耶蘇教は日本に流行するの機會を得ざるべく若し又耶蘇教にして日本に流行するに〓らん乎佛教は古來の地位を保つの餘地を失はざるを得ず〓に二者の勝敗如何を見れば日本の教法は後來如何なる有樣に成行く可きかを〓るに足る可し
〓〓今此〓〓に〓て穿〓を〓むる前に先づ讀者諸君に向て注意を〓はんと欲するものは我輩の議論は佛教若くは耶蘇教〓〓の本質より其勝敗の孰れに歸すべきやを推測するも〓〓〓〓〓〓〓なり盖し佛教にもあれ耶蘇教にもあれ其教義の〓〓〓〓を論ずれば双方共に長短得失あらん之を論ずるは所謂水掛論にして際限ある可からす特に我輩は元來教法の事には不案内なれば教法の内部に立入りて其正邪善惡を論評するを好まざるなり故に我輩が下文に陳述する説は全く人生一般の状態より觀察して全体人間社會に起れる百般の競爭に於て如何なる者が勝を得て如何なる者が敗を取る可きやと考へ是を推して教法上の競爭に及ぼし其論斷を下す者なれば仮令ひ我輩が甲を評して乙に勝つ可しと言ふも其言は強ち一方の教義が他の教義に優ると云ふの意に非ざることは讀者諸君の爲め〓〓せらせんことを祈るなり
斯く議論の道筋を定めたる上にて此問題に入り仔細に觀察するに我輩の所見にては氣の毒ながら佛教は耶蘇教と競爭して永く今日の地位を保續すること能はずして耶蘇教は遂に日本一般に流行するに至る可しと思はるるなり勿論我輩の言ふ所は日本が今月今日直に耶蘇教國となる可しとの意に非ず今日の有樣にては日本國中學者士君子の一類と少數なる神官等を除くの外は一人として佛教信者に非ざるはなく耶蘇信徒の如きは僅に其千百分の一に過きざるが故に無論佛教全盛の姿にして又今度迚も一國民の改宗とては决して容易の事に非ざるが故に耶蘇教が全く佛教に打勝つ歟又は之と同等の勢力を占むる歟或は少なくも之が一大敵宗となる迄には許多の歳月を費す可きは勿論なれとも此等の事情をも總て勘定に取りたる上にて永久の間に双方の勝敗如何と考ふるときは結局其勝利は耶蘇教の方に在りと謂はざるを得ざるなり請ふ是より其理由を説かん抑教法上の競爭にて勝つと云ひ負くると云ふは如何なる意義ぞと云ふに勝つとは多數人民の信向を受くるの謂にして負くるとは之に反して獨り少數人民の歸依を得るの義なり或は之を人の信心を■(しょうへん+「又」)攬すること最も多き者は勝ちて之を■(しょうへん+「又」)攬すること最も少なき者は負くと謂ふも其義は同一ならん然るときは先づ初めに人の信心を收攬する力ある者は何物なるを知り次に此信心を■(しょうへん+「又」)攬する力ある者を有するは佛者と耶蘇教徒(本文佛者とは佛教の僧侶にして耶蘇教徒とは耶蘇教の僧侶なりと知る可し但し一般の信者をば佛教信者若しくは耶蘇信者と稱して之と區別す以下皆之に效へ)と孰れか最も多きを知らば二者の勝敗は判然明白何人も復た之に向て異説を唱ふること能はざる可し故に我輩は是より順次に此二樣の疑問を解釋することを務めんとす
抑人間の交際上に於て人の信心を■(しょうへん+「又」)攬する力あるものは其數多かる可しと雖も我輩の所見を以てすれば其最も有力なる元素凡五あり一に曰く金力二に曰く知識三に曰く徳望四に曰く位階五に曰く久〓〓主力是なり此五者は皆他力そ借らず獨立して人の信心を引寄するの働を有する者なり例へば金力ある者は知識もなく徳望もなき人にても世間の信向を得又智力ある者は金力なく徳望なしと雖も尚ほ人の信用を受くるが如く其〓〓〓〓〓も亦此の如し我輩今爰に一々此五者が人の信心を■(しょうへん+「又」)攬する力あることを説明せんと欲せば其例證に乏しからずと雖も思ふに其理と事實と共に明白簡易にして聽〓なる讀者諸君は自から能く之を會得すべしと思へば我輩は更に無益に多言を費さずして唯此五者は人間交際上に於て人の信心を■(しょうへん+「又」)攬する元素なりと定めて直ちに第二の疑問に進み此五個の元素を有するは佛者と耶蘇教徒と孰れか最も多きを考究せんとす (以下次號)