「日本敎法の前途如何」
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本文
前段に於て人間の交際上に人の信心を収攬する元素は金力、智力、徳望、位階、及び久據
先生の力の五なることを知りたれば是より佛者と耶蘇敎徒とは孰れか最も多く此五元素を
有するかを考ふ可し之を考ふるに當りて其中位階の一點に就ては我輩双方共に大なる差違
なしと思ふなり但し今日佛者は敎導職とて稍政府の官吏に似たる資格を有するともこは世
人の目に於て信心を揩キ可き程の地位に非ざれば此點に於ては暫く双方に甲乙なしと見做
して其他の四個條に就て一々双方を比較するに第一金力の點に於ては佛者が耶蘇敎徒に及
はざるは明白なるが如し抑敎法の目的に用いる金錢は信者の喜捨に出つるに外ならざるは
彼此同一なれども其金額の多少は信者の貧富と信者が力を宗旨に盡すの厚薄とに因らざる
を得ず然るに西洋にて耶蘇敎の信者たる者は其生計の度、概して日本人の上に出るは世人
の許す所にして又彼の信者が敎法に熱心なるも遙に佛敎信者に過るものあるが如し仮令ひ
其熱心は同樣同一なりとするも佛敎信者は唯自から敎を信して身の爲にするのみなれども
耶蘇敎の信者は己れ自から之を信じて又隨て其敎義を他人他國に傳播せんことに盡力する
者多し故に單に理論上より推測するも佛者の富は耶蘇敎徒に及ばざるを知る可しと雖も今
若し實際に就て觀察せば果して此推測の誤らざるを見る可し試に今日現に耶蘇敎徒の爲す
所の事と佛者の行ふ所の事とを比較せよ歐米諸國の耶蘇敎會は其本國に於ては啻に敎法に
關する百般の事務を行ふに至らざる所なきのみならず直接に敎法に關係なき敎育、衛生、
救助等の事柄にも干與して之が爲に莫大の金を費し特に貧民救助の如きは政府にて自から
行ふものゝ外は重に憎侶の手にて之を行ふを常とするが如し然れども此等の敎會は唯其本
國に於て敎法を守るを以て滿足せずu々其敎法を弘布せんが爲に多數の宣敎師に巨額の給
料を與へて之を各区に授與し又其敎典を各國の毎に飜譯して廉價に其國は配布する等の爲
めに巨額の金を費せり(米國の「ばいぶる、ソサイテー」にては其敎典を百六十餘種の國
語に譯して夫々の國々へ配布すと云ふ同會社にては千七百年以後七十年間に一億萬巻餘の
敎典を刊行せりと聞く又英國の海外敎典會社にて現今一年間を刊行する敎典の數は凡二百
萬巻にして其半數は皆外國に出る者なり而して此等の書は多くは施與に係り賣て金を得る
者は少なし然れども諸方より同社に寄送する金額は毎年殆ど五十萬弗の多きに至ると云ふ)
之に引替へ日本の佛者が金を費す事とては唯寺院を建立修復する等に止まり自己が敎法の
領内に在る事にすを充分の金を費やさゞる有樣なれば况て敎法外の事柄に多少の金を費す
が如きは徃古は知らず今日に於ては唯眞宗の僧侶抔が何々の地に病院を建て何々の地の道
路開鑿に若干の金を出したりとか又は東京にて何々派の僧侶が何と云へる育兒院を設けた
る抔折々新聞紙上に散見するのみにして其費す所の金額も又其勢力の及ぶ所の區域も極め
て小なるを知る可し又海外に宣敎師を派遣したりと云ふは唯眞宗本願寺が支那朝鮮等に一
二の別院を設けたるを聞くのみにして其他には絶て例あるを見ずされば理論上より推測す
るも實際の有樣を觀察するも金力の點に於て佛者は耶蘇敎徒に及ばずと云はざるを得ざる
なり
次に智力の點に至りては二者の優劣一層明白なり元來僧侶なる者は一般人民を敎化調導す
るを職とし一般人民に對しては敎師の地位に立つ者なれば其智識は是非共一般人民の上に
出ざる可らず然るに今、日本人民の智識の度と西洋人民の智識の度とを多數に平均して之
を比較すれば前者は概して後者に及はざるは世人が一般に認許する所なりとすれば是劣等
なる日本人民の上に立つ所の敎師の智識は優等なる西洋人民を敎導する敎師の智識に及は
ざるは自然の結果なりと謂はざるを得ず然るに今又彼此の敎法信者の種類性質如何と考ふ
るに日本にて佛敎の信者たる者は智識の點に就ては概して所謂下等人民にして少しく文學
を知りて世間の交際上に多少の勢力を有する輩は大抵敎法の外に逍遙する者なれば佛者の
爲めに要用なるは唯日本人民中平均以下の人物を敎導するに足るべき智識を有することな
れども西洋にて耶蘇敎を信する者は决して下等人民のみに限らず學者士君子の類も亦皆其
信者なるが故に此等の信者に接する所の僧侶なれば亦决して獨り愚夫愚婦の信向を繁くの
智識を有するのみにて事足る可きに非ず左れば此點に於て二者智力の優劣は一層懸隔せざ
るを得ざるなり
以上の説も亦單に理論上より推測したる者なれども之を實際に照せば亦其証據を得るに難
からざる可し聞く所に據れば英米等の國々にて僧侶となる者は皆各自敎會の試驗を受けて
合格する者に限り而して其試驗の資格には敎法外の智識を要する者多く例へば大學校を卒
業せざる者は監督となることを得ず云々の個條ありと云ふ左れば西洋にて僧侶たる者は獨
り敎法の事に通達するのみならず一般普通の智識をも兼有するは自然の勢の〓〓したる所
にして近〓は僧侶にして其名を學問社界に著したる者甚た尠なからず亦以て事の實際を見
るに足る可し日本の佛者にも古來名僧智識とて獨り自家の敎義に通達するのみならず世上
一般の人事を解する人々も少なからず又今日に於ても和漢の典籍に通じ詩歌文章を善くす
る者の如きは佛者中に多かる可し即ち宗敎外の智識才能なりと雖も今後人智進歩の世界に
於て廣く人の信心を収攪せんとするに斯る迂濶の陳腐智識を以てするも用に適す可らざる
は具眼者の既に知る所なり左れば宗敎外の智識即ち最も人の信心を収攪するの力ある人生
有用の智識は佛者に少なくして耶蘇敎徒に多きは疑を容れざる事實なるべし
又爰に耶蘇敎徒をして佛者に優る智識を養はしめたる原因なりと思はるゝものは近來歐米
諸國に於て有形理學が著しき進歩爲したる一事なり此等の學術は次第に進歩するに從ひ次
第に敎法の領地を蠶食するの勢あるを以て敎法家も初の程こそ之を度外に措て顧みざりし
こともあるべけれども理學進歩の勢漸く揄チするに至れば不得意ながらも起て之を防禦せ
ざる可らず之を防禦するに就ては味方の強弱を知る上に又敵の虚實をも知らざる可からず
故に務めて理學の道理をも穿鑿して其道理の終に抵抗す可らざるを見ては之に自家の敎義
を適合せしめて學問の進歩と並行せんことを謀るが故に其説の當否は兎も角も其社會と與
に進歩するの事實は明白なるのみならず其間常に學問社會の刺衝を受けて大に其智識を開
發することあるは疑もなき事實なり日本の佛者も古來儒者の爲めに苛酷の駁撃を受けたる
は恰も耶蘇敎徒が學問社會より攻撃を受けたるが如き有樣あれども我輩は未だ佛者が之に
抵抗して目に立つ程の爭論を開きたることを聞かず是れ盖し半は佛者の怠惰無氣力なるに
も因る可しと雖も前に云ふ如く日本にて佛敎に歸依する輩は概ね無智文盲の徒にして固よ
り高尚なる議論に就て是非を判斷するのカン〔監の下が金〕識を有せざるが故に仮令ひ儒
者が如何程に佛敎を攻撃したりとて毫も是輩の信心を動かすに足らざれば佛者が自から起
て之に抵抗するの勞を取らざるも决して其宗旨の盛衰に關するの心配なきを以て佛者の慧
眼早く已に此事情を洞察し他の攻撃を餘所に受けて窃に儒者の愚を嗤笑したることならん
左れば當時の佛者には儒者と爭論するの必要なかりし故に自から之を爲す者も少なかりし
ならんと雖も兎に角に其爭論の機會を得ざりしは則ち其智識を研ぐの機會を得ざりしもの
なれば此點に於ても佛者の智識は耶蘇敎徒に及ばざるを見るべし又三十年來西洋文明の主
義次第に日本に流行するに當りて前日の儒流にて壯年の輩は無論老儒碩學と稱する者に至
るまでも半は舊主義を抛棄して新主義に移り又隨て新主義を世上に弘めんことを務めて餘
念あることなし之を約言すれば儒流は自から自家を去り自家を〓て他に移轉し他家即ち新
自家にして反顧の念なしと雖も佛者に至ては自から舊家屋を〓するものありて之に住居す
る限りは兩〓主義を取ること甚だ難し畢竟其人の遲鈍なるが爲に之を取らざるに非ず仮令
ひ或は僧侶中の敏なる者が洋學實理の確なるを知て其主義に從はんとするも從前實理に就
ては最も縁の遠き佛説中に頻に西洋の主義を投せんとするは日に〓くに水を以てするに異
ならず火勢盛なれば其水は無効に屬し水の量多ければ火を減するの恐あり數千百年來陳腐
に陳腐を重ねて夢にだも有形の道理を知らざりし其佛法が今日西洋の主義に近づくは徒に
其消滅を促がすに足る可きのみ西洋の耶蘇敎が數百念の間徐々に文明の科學に尾して進歩
したるものとは同日の論に非ず之を要するに今の日本の佛敎と西洋の科學とは同處に兩立
す可きものに非ずして佛は唯無智の下等社會に適す可きのみ彼の耶蘇敎徒が時としては無
理ながらも科學と宗敎との間に出沒して社會上流の心をも収攪するが如きは佛者の企て及
ぶ可き所に非ず左れば智力の點に於ても佛者は耶蘇敎徒に及ばずとの説は佛者の打消すこ
と能はざる所なるべし(以下次號)