「日本敎法の前途如何」
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時事新報に掲載された「日本敎法の前途如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我輩は前號に於て金力智力のニ點に就て佛者と耶蘇敎徒との優劣を比較して二つながら佛
者は耶蘇敎徒に及ばざる事を知りたれば是より進て徳望の點を比較せんに此點に於ても佛
者は耶蘇敎徒に劣る所ありて優る所なきものゝ如し世人の常言に日本人は百般の事に於て
西洋人に及ばずと雖も道コの一點に至りては却て彼等に優る所ありと云ふことあり我輩は
未た遽に此の斷定を許すこと能はずと雖も今暫く之を許して日本人民の道コは概して西洋
人に優る所ありと仮定するも佛者と耶蘇敎徒とを比較するときは前者の道コは却て後者に
及ばざるべしと思はるゝなり固より佛者の中には碩コの高僧も少なからず又耶蘇敎徒の中
にも品行オ〔サンズイ+于〕穢なる輩も多かる可し人々に就て論すれば際限もなきことな
れども全体を押並へて敎法に心身を委ねて安危禍b顧みず他人の爲めに信義を盡して報
酬を望まざるが如き善行は孰れが最も多きや或は敎法の盛衰は第二に置きて專ら一身の榮
華を謀り來世の幸b他人に説て自からは浮世の名利に眷戀し陽に衆生の精~を救導すと
稱しながら陰に己が肉体の慾を恣まゝにするが如き醜行は孰れか最も少なきやと一々探索
せば我輩必ず高コなる者は耶蘇敎徒に多くして品行オ〔サンズイ+于〕穢なる輩は未た此
事に〓し晴〓なる統計表を作りて前論の旨趣を証明すること能はざるが故に人或は我輩の
説を以て充分なる証據なき者なりと謂はん〓〓をば我輩は暫く一歩を退き佛者全体の道コ
と耶蘇敎徒全体の道コとは優劣なしとするも今日歐米より日本に來りて專ら弘敎の事を〓
とる宣敎師と日本の佛者とを比較して二者道コの優劣如何と尋ぬるときは〓〓〓〓程〓〓
〓なるも復た〓〓は〓〓〓及ばずと云ふこと能はざる可し盖し今日、日本に來る宣敎師は
〓〓〓共に導〓〓〓〓敎徒に〓〓したる者にして敎〓の爲に盡力するは〓〓〓〓交るにも
〓〓〓〓〓〓〓爲に〓〓〓〓〓を〓〓〓〓〓〓〓日本の佛者も〓に之を見聞して〓〓〓は
窃かに〓〓する所ならん左れば徳望の點に於ても亦佛者は耶蘇敎徒に及はずと謂はざるを
得ず
右の如く金力、智力、徳望の三條に就ては佛者は皆耶蘇敎徒に及ばずと雖も爰に唯一つ佛
者の爲に便利にして耶蘇敎徒の爲めに不利なるは則ち佛者が久據先主の力を專有する事な
り此一點に於ては一も二もなく佛者の方に勝算あるのみならず耶蘇敎徒の爲す可き事は新
に信者を作り出すに在りて然も其作り出す可き信者は取も直さず其相手なる佛敎信者の中
より取り來らざる可らずと雖も佛者の爲す可き事は唯舊來の信者を失はざるに止まるもの
なれば二者の難易便不便は殆ど同日の論に非ざるなり左れば佛者が耶蘇敎徒に對して贏輸
を爭ふ可きは唯此一點に在りと雖も元來此久據先主の力は金力智力等の之に伴隨して其働
を助たることあればこそ大に人の信心を収攬するの効を呈する者なれども若しも之を孤立
せしめて他より其助を與へざるときは其勢力極めて微弱にして到底金智等の有力なる働に
抵抗するを得る者に非ず例へば田舎抔にて舊家と稱し今は資産も無く位階もなく加ふるに
其主人は無智文盲にして然も放蕩無ョなる者にても祖先傳來の由緒にて多少に村氏等の尊
敬を受るの例ありと雖も今若し由緒も來歴もなく全く身一つの働にて巨萬の財産を作り出
したる新百姓が之と軒を並べて住居し而して此新百姓は身持堅固なるのみか世間萬端の情
實にも通し何事に付ても他人に優るのみならず常に金錢を惜まずして一村の便uを謀る者
なりとせば村民は二者孰れに向て其信心を歸す可きや~事祭禮の相談には孰れをョみて世
話人とす可きや冠婚の祝宴には孰れを推して上客とす可きや或は村會の議員には孰れを撰
び一村の公事訴詞には孰れを總代とす可きや我輩は斷して村民が彼を舎てゝ此に從ふを知
るなり右は淺近の例なれども久據先主の力は專らョみとするに足らざるの證據とするに足
る可し故に彼此を差引計算せば最も人の信心を収攬する元素は耶蘇敎徒に多く佛者に少な
しと斷定せざるべからず即ち二者の競爭に於て耶蘇敎徒は勝利を得て佛者の敗北を取らざ
るを得ざるなり
以上の論辨にて既に充分佛者と耶蘇敎徒との勝敗如何を卜知するに足る可しと雖も此外に
も猶兩者の勝敗を促すべき原因なりと思はるゝもの二項あり即ち其一は兩者相互の〓〓是
なり我輩が前に云へる如く耶蘇敎徒は佛者に對しては攻撃の地位に立ち佛者は耶蘇敎徒に
對しては防禦の地位に立つ者なるが總て攻撃の地位に立つ者は其事の困難なる代りに其氣
力精~の活パツ〔サンズイ+發〕旺盛なること决して彼の防禦を專らとする者の萎靡衰弱
なるが如きに非ず兵事に明なる人は皆攻戰を守る戰とは大〓梟勢の強弱を異にすることを
知れ〓佛敎は數百千年以來日本に流行して日本國内には一人も佛者に敵する〓〓かりしか
ば〓〓〓〓外患なき者は常に亡ぶの道理にて今〓に於て佛社の〓〓〓〓しと〓〓〓〓〓た
りと〓〓〓〓今此腐敗極まれる信者にして彼氣力精神充滿したる耶蘇敎徒と〓〓を爭はん
とするは恰も垂死の老人が血氣の少年と腕力を角せんとするに異ならず其勝敗の孰れに在
るは三歳の童子も能く之を知るべし是れ亦佛者が耶蘇敎徒に對して敗北を取るべき一原因
な〓〓るに此に尚一層〓〓〓〓利にして耶蘇敎徒に利なるは日本人民が敎法に澹泊なる一
事なり日本の上等人士にして敎法の外に逍遙する者が敎法に澹泊なるは言ふ迄もなきこと
なれども下等人民にして實に敎法を信向する者にても其敎派の區別を顧みざるは實に驚く
に堪えたる者あり例へば佛敎と神道とは本来全く其旨を異にするものなれども日本の佛敎
信者は法華、眞宗等一二の宗派を奉する者を除くの外は自から眞言宗なり淨土宗なりと宣
言するにカカ〔手偏+勾〕はらず稻荷にも明神にも低頭祈願して疑はず伊勢參宮の道筋に
高野の弘法大師を拜し高野の歸りに京都の本願寺に參るが如きは信心家の常にして自から
も怪しむことなければ人も亦之を咎むることなし今若し西洋にて耶蘇信徒が「マホメツト」
を禮拜するか又は回敎信者が基督を禮拜するが如きことあらば如何計りの騒動を惹起す可
きや左れば日本人民は一般に西洋人よりも敎法に澹泊なりとは誤なき事實ならん抑此事實
は社會全体の爲めには極めて利uなる事にて例へば古來日本に敎法上の大爭乱なきも此事
實に原因するならんと雖も今日佛者が耶蘇敎徒と相爭ふに當りては大に其不利たらざるを
得ず何となれば斯く宗旨の差別に頓着せざる人民なれば稻荷明~を拜するの心にて耶蘇基
督を拜するも毫も論理上に撞着する所なく又其習慣に悖戻する事なければなり此一事にて
も亦大に耶蘇敎の流行を助くる原因なるべしと思はるゝなり(因に云ふ近世古學者と稱す
る者の説に佛敎が始めて我國に入りたるときは日本人民は皆古來の~道を信じ佛敎をば外
國の敎なりとて之を奉するを嫌ひたるが故に佛者は一計を案じ本地垂跡の説を作りて例へ
ば天照大~は大日如來の垂跡にして熱田~社の本地は倶利迦羅不動なりと云ふ如く~道と
佛敎とを一体同身の姿となしたるより人民も復た佛敎を嫌忌せずして佛敎は一時に國内に
蔓延したり古來我國に兩部~道とを~佛混淆の宗派ありしは此より起りたるなりと云へり
是説若し信ならば本文に述べたる日本人が宗旨の差別に頓着せざる風を作り出したる者は
佛者彼自からにして其最初敎法を弘布する方便となしたるものは千餘年後の今日に於て却
て敎法の競爭に敗北を取る可き因となりたるものと謂ふ可し)
以上に述べたる如く敎法上の爭にて〓を制す可き武〓〓を多數人民の信心を収攬する元素
は〓〓敎に多くして〓〓に少なきのみならず佛者には眞に敎〓を〓〓に敎を〓〓〓〓る可
き二個の〓〓なりとすれば佛者〓〓を〓〓大〓〓〓〓を一新し其人心を収攬する元素を有
すること〓〓〓〓〓〓〓るに至らざ〓〓〓〓决すを〓〓之を〓〓して〓〓〓〓〓〓〓持す
ること〓はざるは〓〓〓事〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓り佛者果して此〓〓〓〓〓〓〓〓〓
(畢)