「支那帝國海軍の將來如何」
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時事新報に掲載された「支那帝國海軍の將來如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
支那帝國海軍の將來如何
地を有する九十萬方里人あること四億餘萬、支那は眞に世界の大國なり國大なれば財多く力強きは一般の定則なるか故に此支那帝國の兵力果して強盛なるべき筈なれとも今日まで支那が外國と爭端を搆へて嘗て花々しく戰爭に打勝ちたる例しなく交戰とあれば常に敗北し適々交戰に至らざるときは又和を乞て局を結ぶは英國に對し露國に對し又佛國に對して皆然らざるは無きなり或人の説に曰く支那の兵力決して弱ならず特に近年に至りては其海軍も振興して軍艦大砲專ら西式を取り遠からずして東洋第一の海軍國たるに至るべし兩三年以前迄同國の海軍は軍艦六十餘艘より成立つとのことなりしに既に今日にては揩オて百有餘艘に登りたりと云へば支那の海軍容易に輕侮す可らず之と對峙する邦國に於ては豈に戒心せざる可けんやと然れとも我輩の知る所を以て之を斷するに此説たる寧ろ支那海軍の威光を怖れ過ぎたる者にして適切の言に非ずと思はる若し支那の海軍をして今日の有の儘ならしめん歟其軍艦百餘艘ありと雖とも固より恐怖するに足らず然れとも邦國進歩のことは三日見ざれば刮目して待たざる可らず今日恐るゝに足らざるの支那海軍も明年となり又明後年となるに至らば如何樣なる進歩をなして今の面目を一新すべきか實に測り難きことなり左れば我輩は讀者諸君と興に此問題を研究して預め支那海軍が他日如何なる有樣に至るべきやを論するも亦無益のことに非ざるべし何となるに隣國の兵備軍勢を知て之に應する護國の策を運らすは國の獨立を維持するに必要なればなり
支那陸軍の大數は之を知ること稍や易しと雖とも其海軍に至りては甚た曖昧にして觀察に苦む所無きに非ず是れ支那海軍の記録缺乏して考徴する能はざるに依て然る者ならず全体支那の海軍とは我日本國若くは歐米諸邦の如く陸軍と對峙して一個獨立の組織あること無く言はゞ陸軍に附屬したる水軍の一種類なるのみ盖し支那の軍制にては國内の軍人を八旗に分ち滿州八旗、蒙古八旗、漢軍八旗合せて二十四旗、出入攻守の任に當り十八省外藩に右の八旗を頒布して総軍丁八十餘萬人と聞えたる者なれとも是は四億餘萬の人口九十萬方里の土地を鎮撫する内國守衛の軍人にして八十萬と稱すれば巨大の員數なれど國土人口に比例するときは固より多しと云ふに足らず左れば此軍人は全く内を守る丈の人數にして外、東洋諸國に對し或は歐米諸國に對して備ふべき兵力は別に其出途無かる可らざるなり此一面の責に當るは則ち今の支那帝國海軍なりと雖とも元來陸軍附屬同樣の水軍なれば恃んで充分屈強の城壁とするに足るべきや如何ん甚た疑はしき次第なりと云ふべし盖し両三年以前迄は支那の軍艦六十餘艘なりしを近來頻に歐洲に軍艦新造を注文し鉄艦砲艦合せて百餘艘に至りしと云ふ其明細書は我輩の未だ見る能はざる所なれども此實數を以て左程の相違無き者と看做すも其中には必ず古式製にして今の實用に供し難き者もあり或は既に腐蝕破緘したるもあるべし但し支那政府より先頃日耳曼の造船塲に注文して製作せしめたる〓〓、〓〓、濟遠等の諸鉄艦は既に落成したる由にて甲鉄大砲機關とも西式新改良の者なりと云ひ此外にも砲艦、水雷火船の注文許多なりしと云へば此等の落成次第皆支那海軍の列に加はつて其兵力の強を揩キべきは勿論なれとも福建省沿岸の海防事宜に任する張佩綸と云ふ人の上疏文にては當時支那海軍に於て實用新式の軍艦は北洋に二艘南洋に五艘都合七艘のみなりとあり之を推して考ふるも支那の海軍其名は百餘艘の軍艦あれとも其實は日耳曼注文の新造艦に此七艘を加へたる僅々十餘艘の艦隊のみならん歟豫て我輩が聞知せし處に據るに從來支那政府が軍艦を得るの法は重に福州上海等自國の造船所にて製作するを常とし明治九年始て四艘の軍艦を英國に注文し〓〓十二年更に四艘を注文せし以來は本國にて軍船を造作すると同時に續々外國にも注文するに至りたるなりと云へば百餘艘の軍艦も多くは皆内國の自製品にして彼張佩綸が南北兩洋七艘の外に新式實用の軍艦なしと明言せしも亦或は實際の申條なるべし且我輩が更に聞得たる處にては支那の軍艦は揚子江黄河の沿岸或は天津、芝罘、上海、廣東等の近海、波靜に風穩かなる塲所々々を巡邏する江河用の小軍艦多くして暴風恕濤萬里遠洋の上を縦横して敵艦を蹂躙すべき程の搆造を倶有する者とては誠に僅少なる由なれば現在支那海軍の恐怖するに足らざる亦推して知るべきなり又支那國に於て古來より水兵と稱する一軍ありて長江の水戰に熟練なりなど言傳へ先に老將
彭玉麟が江南の水師提督たりしときには盛に此水軍を練習し又前両江總督左宗棠も其治下長江沿岸數十ケ處に漁團と稱する新營を設け水邊に生長して舟漕き水泳きに熟達する者共を團結し國家の防禦に備ふるとて大に盡力したりしとのことなりしが方今萬國の海軍水兵と稱する者は斯る船頭舟子同然の團結とは雲泥月鼈の相違なるべし又江南の水師、兵士の勇は勇ならんと雖とも是も漁舟小戰の兒戯なるべければ之を以て支那の水軍は強しと云ふ可らず長江近傍水淺くして流狹き塲所の懸引には水門を潜り抜け又は船底を穿ちこれを沈むるなどの故智を學ぶに容易ならんと雖とも海洋波濤の戰爭に臨まば鉄艦穿つ可らず海底潜る可らず轉た相率ゐて水に溺死せんのみ尤も我輩が爾く言ふ所以のものは敢て支那の海軍を輕蔑して一も二も恐るゝに足らすと爲すには非ざれとも現在の支那海軍は恐怖するに及はざる者なりと思惟せり然らば則ち支那の海軍は到底恐怖するを要せざる歟曰く否な我輩は支那帝國海軍の漸く興起して他日世界を恐怖せしむるの時あらんことを信ずるなり(未完)