「 餘り長きに過ぐることなかれ 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「 餘り長きに過ぐることなかれ 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 餘り長きに過ぐることなかれ 

人の心の働きは文明進歩の速かなるに及ばず我日本の二十年前の有樣を顧みてこれを今日の有樣に比較すれば人の心の働きも隨分神速なるものゝ如き感情を喚起すべしと雖ども更に叉顧みて世界文明の歴史を按すれば其進歩の神速なること實に人間を驚かすに足れり文明は駿馬の奔るが如く人心は跛龞の行くに似たり固より同日にして論すべきものならざるなり人にして十年以前の知識議論を其儘に維持しこれを今日に改むることを知らざる者世間徃々にして見る所なりと雖ども世界の文明は然らず試に十年の前後を比較し來れば殆んと隔世の思なきを得ず彼の文明を輸送する汽船銕道電線等の有樣を見ても其一斑を窺ひ知るべきなり文明の進歩は斯の如く神速なるに人心の働きは斯の如く遲鈍にして相隨伴することを得ざるが故にや人心時に文明の進歩に倦みて只管其後を顧み強ひて一時の休息を貪らんとするの情なきにあらず殊に我日本の如きは文明の競走塲裏に入るに他人に後るゝこと五六十年なりしが故に進て他と比肩の地位に立たんとするには其速力を倍加せざるべからず尋常の競走尚ほ且つ疲倦に堪えざらんとするに况して二倍の速力を以て他人の跡を追はんとするをや人心疲勞の餘り時に空しく舊時の閑天地を夢みて戀々の情に堪えず其情の熾んなるに當りては世界の大勢をも忘却して強ひて一時の閑を偸まんとするの意向なきにあらざるが如きは盖し人間に免かるべからざる病弊にして是非もなき次第なるべし

日本の文明は駸々として其歩を進め人心の活潑なる二十年一日の如く甞て倦むを知ることなし然るに明治十四年の末頃より人心俄かに疲勞の態を現はし歩々後を顧みて遲疑逡巡し一旦は意を决して世界の文明洋面に乘出したるも到底其風波の險に堪ること能はずとして苦痛を訴るの有樣あり文明の競走其業固より容易ならず不幸にして十九世紀の文明諸國と伍を同くし無辜の日本人民に向て強ひて此難業に堪えよと云ふは如何にも氣の毒の至りなりと雖ども文明の進否は日本全國の興廢存亡に關す一二の苦情のために此歩を止むべきにあらず此故に社會の表面には飽くまで逡巡却行の色を妝ふと雖ども社會内部の實勢は依然として其方向を舊時の進歩に取り一歩も後に退くことなし其狀恰も江流に春潮の張りて表面の水勢は現在上流に逆行すれども裡面の江水は依然下流に注きて暫くも止まることなきと一般なり故に世の識者は春潮の徃來に驚かずして依然其行くべき道を行きて顧慮することなしと雖ども社會は明盲相半するの諺に泄れず兎角短見淺識の徒に乏しからざるが故に春潮の徃來忽ち此徒の安心を攪乱し狼狽の餘りに天下の大勢は江河の上流に逆行するなりと心得俄かに其轅を回して潮を趁ひ上流に走るの風を成すの趣なきにあらず明治十四年來の形勢を察すれば自から斯る事實の存するものあるを見出すべし一來一徃單にこれを一國内の事物上に就てのみ察するときは其利害必ずしも大ならずと雖ども世界文明の競走塲裏に立て他と輸贏を爭ふの點より察するときは一進一退其利害の關する所實に容易ならず一日の油斷一週の怠漫其罪を贖ふに數年の勤勞を以てするも尚ほ未た足らざる所あり况して全二ケ年間に亘るの長怠漫大油斷をや尋常一樣の勤勞にては迚も其罪を贖ひ返すこと六ケ敷かるべし

我輩は清佛兩國の間の東京葛藤始末を聞ては我日本の海陸軍備を思ひ「パナマ」運河の開鑿を聞ては我日本の海港船舶を思ひ横濱其他の外國人居留地を見ては條約改正を思ひ商况不景氣を見ては鐵道布設を思ひ徳教を思ひ宗旨を思ひ外國人全國雜居の未來を思ひ竊かにこれを今日の實况に照合して轉た慨歎の情に堪えざるものあり日本をして前日鎖國の儘ならしめば文明行路の遲速進退固より我輩の彼是と異議する所にあらずと雖ども唯如何せん一旦文明の爲めに開きたる我海門は再びこれを鎖すべからず既に我門を開きて人の入來るに任せながら依然前日の閑天地を存續せんとするが如きは盖し無理の欲望なるべし我輩は切に全國人民に悃請す文明進歩の業の苦難なる實に君等が訴る所に異ならず然れども明治十四年以來全二ケ年間の肩休めは稍や長きに過ぐるの嫌なきを得ず今日より宜しく君等が固有の勇氣を鼓し更に大に奮起して世界の侮を禦くの工風を爲すべきなり