「人民一般に世界萬國の思想を養ふこと緊要なり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「人民一般に世界萬國の思想を養ふこと緊要なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

外國人の治外法權を撤去して隨て海關税の全權をも日本國の主人たる我一手に執る可きは

當然の理にして復た遲疑す可きにも非ず我れに取る所あれば彼れにも亦與る所なきを得ず

即ち内外締盟三十年來外國人が利用したる治外法權を棄て去るの其代りには我日本國を打

開きて外國人の通商住居を許し内外人の間に毫も區別する所ある可らず誠に以て簡單至極

の事柄にして之を行ふに何の故障もある可らざる筈なるに條約改正と云へば明治四年以來

の問題と爲り今日に至るまで豪も其進歩を見ざるは何ぞや人或は其罪を當局者たる我外交

官に歸する者ありと雖も是れは思慮の甚た近淺なるものにして敬服するに足らず條約改正

の不調が外交官の罪なりとは其官人が内外の事情を知らざる歟、治外法權の無理なるを悟

らざる歟、海關税法の我れに不利なるを辨へざる歟、之を知り之を悟り之を辨へても外國

人に向て之を談する程の熱心なき歟、我輩が所見にては明治の初年より今に至るまで外交

官の更迭は一度ならず人物は樣々に交代したれども凡日本國中に於て内國と外國との關係

に付き其情を詳にする者は外務省に在りと云はざるを得ず、其情を詳にして其交際の衝に

當るものなれは飽くまでも治外法權の無理なるを知り、海關税法の不利なるを辨し、外國

人に向て之を談論するのみならず困難に際しては終日食はず終夜寢ざる程の苦辛もあるこ

とならん人事に於て當さに然る可き數にして日本國中外交の事に熱心なるものは我外交官

なりと云はざるを得ず條約改正の不調獨り外交官の罪に非ざるなり

然ば則ち其罪の所在は何れの處なるやと尋るに我輩は斷して之を日本國民全体の罪なりと

云はんと欲するものなり抑も外國條約に關する利害は獨り政府の利害に非ずして日本國民

全体の利害にして外交官は唯これを處分するの衝に當るものなれども其利害を爭ふや固よ

り一身の私に非ず又一政府の爲に非ず畢竟するに國民の利害云々其與論云々を根據にして

談緒を開き恰も國民を代表して事を論するものなれば其根據たる國民が漠然として自から

度外に居るが如き有樣にては其談論に重力を失ふて成跡の見る可らざるや明なり我輩の常

に竊に憂る所なり頃日外人某氏が〓用を以て内地の處々を巡回して歸港したりとて之に面

會して其言を聞くに云く年來日本政府は條約改正の事を發議して頻りに之を與國諸政府に

促し又東京都下の論客の言、新聞紙の説にも治外法權を撤去せんと云ひ又は海關税法を改

革せんと云ひ其言論は何れも皆國民の利害旦夕に迫りて輿論の最も急なるものゝ如くに

喋々すれども余が今回各地方を經歴して親しく情况を視察するに大に趣の異なるものを發

見したり地方無數の人民は條約改正の事を熱望せざるのみか本來條約の何ものたるを知ら

ず我々を見ればとて其英人なるか佛人なるかも知らざれば英國佛國の所在をも知らざるこ

とならん學校の少年に文を知る者甚た稀にして各地に洋語を解する者絶無に近し、加之

日本の知識は政治の下に集合したりと云ふ其政府の筋なる地方官に逢ふて相互に談語諮詢

するに其言ふ所は一地方施政の情况に過ぎずして動もすれば學校病院等の談より花鳥風月

山水の閑詁に終るのみ成る程日本内地の治術は甚た整頓して遺す所なく實に東洋諸國に擢

んでゝ絶倫例外とも稱す可きなれども人民一般に外國交際の事を度外に置くや又甚しと云

ふ可し下流の群民は無論、其上流の地位に立つ地方の官人にして幾處幾回の談話に一言の

條約改正論に及びたることなく、治外法權の事を語らず、海關税法の事を問はず、之を要

するに日本の内地に尚未た外交の利害を感せざるのみならず或は世界萬國の思想を缺くも

のと評するも可ならん左れば近來東京にて喋々たる條約改正論は唯是れ日本國中の一部分

然かも其表面の一斑に行はるゝ奇言にして固より以て國民全般の輿論として認む可きもの

に非ず云々と

我輩は以上某氏の言を聞き其斷定の酷なるに服するを得ず氏が我地方を巡回したればとを

僅々幾週間の旅行にして其見る所仮令ひ或は廣しとするも深きを得ず殊に氏が言の如く我

日本人は尚未た外國の事に慣れざるが故に外國人へ面會は兎角手重きこと思ふて地方の有

志輩も特に氏を訪ひ又氏に訪はれたることも少なく之が爲に事情視察の不行屆なるは當然

の次第なれども我輩を以て考れば氏の言も亦全く抹殺す可らざるものあるが如し我内地の

人民にして苟も其社會の表面に立ち志しある人物は今日外交の艱難を知らざるなし况や政

府の部内に居る地方官の如き素より憂を抱くこと大なりと雖ども其職務の目的專ら内に在

るが故に自から外交の事情に疎にして細目の談に苦しむの情なきを得ず官人にして斯の如

し人民の之を口にせざるも亦謂れなきに非ず是即ち各地方に外交論の寥々たる由縁ならん

然りと雖ども今日は是れ條約改正の期にして其期は既に已に機に後れたりと云ふ可き日に

して苟も日本國民たる者は之を心に憂るのみならず口ある者は之を口にし筆ある者は之を

筆にする等心身を勞して隨分の力を致す可き塲合なれば中央政府の諸官省より遠方の地方

官に至るまでも仮令ひ其身は外務の事に奉職せざるも常に外交の事を議論して細目の利害

をも明にするは今日の急要事なる可し殊に地方官の如きは直に人民に淺して其言行の影響

する所も廣きが故に外交論に明ならずしては意外の處に不都合を生す可ければ政府に於て

も特に其撰任に注意を加へざる可らず人に新舊あり伎倆に長短あり要用の塲合に於ては地

方に新鮮なる人物を揩オ又は新舊交代せしめて人民の標準と爲し下流の衆庶に至るまでも

世界萬國の思想を抱かしむるは急要事中の最も急なるものと信するなり