「支那外交官の苦心」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「支那外交官の苦心」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那外交官の苦心

安南事件に關して清佛紛議を開きし以來支那にては天子幼沖の折柄慈〓皇太后の〓襟を惱ませらるゝは申す迄もなく宗〓親王在廷百僚より以て士庶人に至るまで和にも戰にも心を勞して其紛議に掛念することならんと雖も就中今後清廷の外交官と爲り清佛談判の局に當て佛國使節と〓俎の間に應對するものは其焦心苦慮も亦格別にして殆んど寝食を安んぜざる程の次第なる可し盖し尋常一様の塲合にては外交官は唯其政府の訓令を奉し外國に對して其訓令通りに應對處置して可ならんと雖も目下支那國内には攘夷家上下に充滿し敵を科り己れを量らずして徒に自から尊大にし和親國を誤まるなどいえる〓筆法を固守して公に開戰を悦ぶものあるが故に李鴻章以下外交の局面に當りて審敵審勢、専ら和議を持するものは外の佛國人の爲めに其喉を〓され内の攘夷家の爲めに其背を〓たれ刺衝を腹背に受けて恰かも其〓に周旋する勢なきを得ず而して其佛國人の強迫は喧嘩仕掛けの難題にして之れと應對談判するは固より困難ならんと雖も外交官の身に取りては内の攘夷家に對する方却て困難なる所あらん盖し佛國の難題は随分無法なるも今月今日直に十八省の割興を望むにも非ず東京の明け渡しと云い五千萬圓の償金と云うが如き洪大無邊なる支那帝國に取りては竹頭木屑として見るも可ならん佛國結局の目的はいざ知らず今日までの處にては其要求する所は僅にこの竹頭木屑のみ清國にて其要求に應ぜざればこそ佛國も彼此れと鬼面を装うなれ若し之に應ずるごときは其れ鬼面も亦忽ち佛顔に變して同時に其外交上の困難を緩むることならん即ち佛國の求むる所は土地と償金とに在るが故に之を渡せば立〓に其意を滿たす可しと雖も内の攘夷家に至ては眞實正銘に攘夷を主張するものにして其〓固より情〓を存ぜず徹骨貫腦唯一片の丹誠あるのみ然かも世局に通ぜずして動もすれば外國人を〓敵視し犬羊を邊〓を竊〓するを防て二百年來愛親覺羅氏の〓育に報ず可しとて心の底より斥攘を熱望するものなれば土地金銭を以て其心を動かす可きに非ず支那の〓〓左宗棠、彭玉麟の如きは孰れも此流の人物にして外交官の苦心をも察せず其一着を外國人に譲りて談判の破綻を〓〓するを見て彼れ〓を洋鬼に献じて中華の〓面を汚したりとて傍より之を指斥するが故に清廷當局の外交官は他のげた論に〓〓するよりも寧ろ内情を〓〓するに苦慮して内外の〓〓に〓まるとの〓〓なきを〓ず〓に之を〓〓すれば佛國人の強情は追い〓き同様の申條にして汝は其衣服を渡せと云うが如し家財に富んで庫に數襲の衣裳を藏するものにても其衣服を〓がるゝは誠に迷惑ならんと雖も尚瞑目して其望に應ずることを得べし攘夷家の注文に至っては汝は此熱湯を飮めと云うに等しく〓けて其注文に從はんとせば〓唇焦舌の禍、〓を回らさずして至らん目下清廷外交官の苦心亦想い見る可きなり

今は去ること三十〓年前米艦我浦賀に到來して〓幕政府に開藩を促がし尋て露英佛獨等の諸國が通商修好を申入れてより攘夷の議論所在に起り時の大老の姑息を責め外國奉行の無決断を咎めたれば當時幕府の外交官は外國人と攘夷家とに〓まれ中に断する能わずして姑息模稜の議を招きたりと雖も今にして之を思えば當時外交官の苦心は實に言う可からざるものありしならん然るに目下清國の外交官は嘉永安政間の我外交官と其境遇を同じくするものにして我輩も亦少しく同情の感なきを得ず畢竟支那の人民は今日に至るまで外國の情勢を知らずして我嘉永安政間の人と恰かも同夢を夢むるが故に徒に外交官の肘を〓して却て其國を禍するも〓として之を怪しまざるのみ凡そ文明國間に國するものは其大利害大抵外國より來るが故に苟も其人民たらんものは世界萬國の思想を養成して内外の強弱貧富文野等を知り事全國に關するものは之を外交官の責のみに歸せず力を量り德を測りて之に應ずる覺悟なかる可からず我輩平生の持論に於いて我邦の人民に外國の事情を知ることを勸め外國語を習うことを勸め外國人に交ることを勸め又外國に渡航することを勸むるも畢竟右等の理由あるが爲めのみ國に無謀無識の頑氏ありては如何なる外交官と雖も其外交上の〓〓を顕わすこと能わず我輩は我邦の人民が隣國の過を〓戒と爲し一旦外國と事あるに臨んでも外交官をして獨り焦心苦慮せしむるなからんことを望むなり