「和を斥けて戰を取りたり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「和を斥けて戰を取りたり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

和を斥けて戰を取りたり

一昨夜上海よりの電報に佛國公使は去る十九日を以て北京の總理衛門に通〓し四十八時間を限り佛國の要求を承諾するや否やの返答を爲すべし若し承諾せずとあらば公使舘を引揚くるに付通行券を渡し呉るべしとて最後の掛合を爲したりとあり〓きに支那全權大臣曾國〓が佛國公使「パテノートル」との談判調はず決然袂を拂いて上海を立去りたりとの電報到達するや我輩思うらく上海にて〓國全權の談判も〓よ其終結に達し到底和睦の工風なくして戰塲に相見る意を決し何時開戰するも不都合なきよう十分手詰めの處置を了りたる後さてこそ曾氏は上海を去りたるならんと然るに今佛國行使が前記最終の掛合を爲したりよりして考えれば過日曾氏が上海を去りたるは既に終結の談判を了り十分手を盡したる上の事にあらずして談判尚ほ未〓の際恣に上海を立去るものゝ如く然るなり斯くて佛國公使は談判を推進めて急ぎ終結に至らんとするも肝心の談判相手を失いたるがために進退如何ともすること能わず爰に於いてか在北京の代理公使に傳令して前記の如き最終の掛合を爲さしめ償金を拂うが將た拂わざるが二日の間に決答すべし若し拂わずとならば戰塲に相見る外に工風なきを以て我に通行券を興えて退去の路を開くべしと申出をたるものなるべし是即ち和戰如何最終の掛合にして一髪以て千〓を繋ぐ所なり然るに昨朝又上海より電報の到達するあり曰く佛國公使舘は廿一日午後三時を以て北京を引揚げたりとこれに於いてか我輩は一髪遂に絶えて千〓下り撃ち支那政府が断然和を斥けて戰を取りたることを知るを得たり

北京より天津に至る道は日本里法こそ凡そ四十里なり佛國代理公使等が北京を發したるは一昨廿一日の午後三時なりを以て其天津に達するは極迅速にして昨廿二日中が或は時宜に由りて今廿三日までにも後れたることならんさて此一行が天津に達したる上は佛國軍艦のこれを迎えるものあるが或はこれなくば他國の船に〓して早々に南下し來ることならん在上海の「パテノートル」公使も各人既に安全の地位に達したるを見〓めたる上は必ず本國政府の命令を水師提督等に傳えて直ちに開戰の處置を取ることならん此時に當れば必ず戰闘國より英國、魯國、獨逸、米國及び我日本等の如き中立の興國に向かいて交戦の通知を爲すことならん然れども我輩亦或は恐る未だ戰闘國より交戦の通知を得ざる前に忽ち支那の或る部分に於いて清佛の両軍既に戰端を開きたりとの報道を得ることもあらん若し戰端を開くとせば何れの處に於いてこれを始むべきや是皆両國の軍客就中佛國軍客の秘密属するものなるを以て我輩これを今日に明言すること甚だ難し佛國艦隊は目下多く〓州地方に集合しあるを以て此儘直ちに此地方を攻め先ず福建省を占領の後に漸く北上して爲す所あらんとする軍略なるが或は又目下〓〓の〓〓天津地方河口氷合の憂なく直ちに進を京〓に迫り喉を扼して背を〓つの慟に自在なるべく單に兵士の健康上より論ずるも台湾、福州地方南國炎熱の地に滞在して〓〓毒霧の中に〓〓せんより寧ろ北地に來りて山東、置隷地方に暑を避ける上策たるべき意味もあらん故に目下佛艦が南方にのみ〓湊し其志す所は福州を奪うに在りと〓言する其最中に一夜竊かに各其〓を解きて北に航し然艦隊一時に渤海に〓入し疾雷耳を〓うに〓あらざる策に出る軍略なるが將た又此等の外に別に奇策妙〓の在る有るが我輩はこれを今日に知ること能わざるなり

我輩顧みて支那の有様を見るに一旦佛國と開戰の上は先ず必ず敗れん再戰三戰同じく亦敗れん目下の實況にては先ず一つの勝算なしと云いて可ならん然れども我輩又支那の爲めに謀りて一つの望を属すべきものあり夫は他事にあらず世乱れて英雄現わるゝ一事なり今支那の病弊を見るに其最も著明なるものは衆有力者を集合して一大國を左右せんとし有力者個々其意見を異にして相互に他の慟を妨害遮断し遂に無力の極度に達する其有様は一隻の老朽船に數十の船頭を乗組ませたるものに異ならず未だ洋面に出でずして早く既に山に押上げられざるを得ざるなり然るに今佛國と開戰して老將は戰没し閥〓家は亡ぶ天下四分五裂して國家陸沈の悲境に陥るに至れば事の順序として必ず一個の英雄出現し武に文に萬機を左右する自在力は唯此人一人の身に集まる社會を造り出でん是即ち政令一途和するも亦善後の策あり戰うも亦人と爭うの實力を有する時節なり是即ち今の四百餘州の腐敗氣を一掃して光風〓月の天地と爲す時節なり故に我輩は思うらく清佛開戰せば清敗れん敗るれば國乱れん乱窮まれば治の回復する時あらん戰爭必ずしも支那人の爲めに不利ならざるなりと