「佛蘭西と支那と戰爭の譯柄」
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時事新報に掲載された「佛蘭西と支那と戰爭の譯柄」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
佛蘭西と支那と戰爭の譯柄
〓て今回〓佛清の談判も破れていよいよ開戰に及びたりと云う此事は我日本國のため〓甚だ大切なることにして國民上下の別なく其次第柄を心得置〓尚この後の模様次第にて覺悟ある可き一大事件なれども世の中の廣に或は彼岸〓火事〓如く無頓着に差置く人々なきにも非ざる可し去りとて〓我日本国〓〓めよも不相〓又自分の身のためにも不幸なる可ければ我輩〓此事件に就いて兼ねて知る所〓〓けを平易〓説〓記し廣く世上の注意を引起して以て報國の謀を共にせんと欲するも〓〓り抑も此發端〓年久しきと〓て今を去ること二十三年佛蘭西の兵が安南の交趾に向い自國の宣教師を殺したとか傷つけたとか申〓を言掛りをして遂に其地方を押領し夫れより〓〓〓〓安南の本國を窘め、戰爭したり、和睦したり、度々條約をも改めて遂に昨年に至り佛兵が安南領の東京を押領して紅河と云う河を遡り支那の雲南省に道を通して貿易をも開かんとの企てにて夫れ是れ〓〓中に支那と安南の界に一群の野武士とも云う可き黒旗兵なるものあり其大將を劉永福と申して素より外國嫌いの者共なれば初めの程に支那にも安南にも〓なくして獨り佛兵を敵對し毎度戰爭して勝敗の程も見えざる折柄安南の脱走兵は追〓劉大將の下に馳せ集り又支那に政府よりも極内々に兵〓弾薬など贈りて之を援けたりし〓黒旗兵の勢は一時大に盛んにして去年五月の戰爭に〓佛兵敗北して隊長リヴィールも討死しければ佛蘭西に本國政府に於いても更に大に奮發して追々に兵船を繰出して遂に黒旗兵をも逐い拂いて略其地方を平げ〓て支那政府を向いて佛蘭西よりの掛合い元來佛蘭西が安南に對しての處分を東京の事と申し、江河通航の事と申し、佛、安〓國相對の事柄なるに支那政府に何の〓故あれど安南を中華の〓〓など申され謂れもなく人の事を妨るのみも剰さえ土賊黒旗兵に〓〓し又實援して之が爲に佛國にて安南地方の政略を誤り人命を失い軍費を費したる損害は容易ならず〓〓〓〓〓〓〓〓支那政府の〓なれば其謝罪償金として三千萬圓を拂い其上にも云々と容易ならざる難題にして其結末は如何なる可きや或は両國の戰爭に及ぶともあらんかと餘處ながら心配するほどなりし〓如何なる譯け〓て如何なる手續なりしや天津にて支那の大臣李鴻章と佛の船將フルニエーとの談判にて償金は立消と爲り唯安南は〓後支那の關係を絶ちて佛蘭西の保護國と爲し支那は雲南、廣西、廣東の三省を開いて佛商の貿易を自由にする等の約束にて事〓に至りしも存外手輕に落着したることなり然るに其事の落着して先ず安心と云う間もなく支那と安南の境にある郎松と云う城に支那兵の守り居たるを佛蘭西より掛合い天津の和約成りたる上は即時に此城を明渡せと云い城兵は本國政府の命を承るまでは開城せずと云い双方申募りて遂に其塲の砲戰となりたる〓佛の方にては最初より唯た支那人を威して城を取る積りなれど實に戰の手配も爲さざりし處に支那方は真〓の覺悟を以て打つ掛り佛軍の色〓く處を合圖として〓て山の間に設け置いたる伏兵も一時に起りて狼狽する軍勢を谷の底に逐詰め佛蘭西方の大敗北と爲り手負討死百餘人なりしと云う頃は本年六月廿三日の事なり
右は次第なるを以て佛と支那と天津の和睦條約は水の泡と爲り改めて談判の難題に郎松の一條其罪は支那政府の違約に在り今度は償金として五千萬圓を拂う可しと佛蘭西公使パテノートルより支那政府へ申出し尚お七月十三日に至りては應否の挨拶を八日間と限り其れより双方様々の押問答に早や日限も切れて追々〓遲延する其間〓は米國に公使が仲裁に入りたれども成らずと云い、英國の公使は態と知らぬ顔して取合わずと云い段々の掛合の末、佛蘭西は申出の償金を三分一までは減ず可しと題を改めたれども北京政府の内評は中々以て〓〓〓應ず可き模様なく償金とて〓一銭も出す可からず唯佛人に手負討死の者共に救〓の手當として五十萬両を遣わす可しなどの話にて双方の意見〓も一致〓可き氣色もなきより佛蘭西方にて手早くも本月五日支那の属島台湾へ軍艦を遣り島の東北なる〓籠港を攻め取り償金の抵當とて之を守り切迫の談判に及びたれども遂に調わず、兼て北京政府の命を以て上海の佛公使と談判の全權を帯びたる大臣曾國〓も上海を去り、北京に在る佛蘭西公使舘も今は是れまで〓りとて國旗を卸して引拂いたる〓本月廿一日の事をして其翌々二十三日は福州に於いて佛清の間既に砲撃を初めたりと云う
以上は此度佛清事件今日に至るまでの略歴史そして我輩は唯今後の事變に注意して其實を報道することを怠らざる可しと雖も既徃の始末を見て將來の勢を推察するときき開戰の勝敗は如何なる可きや必ず支那方の敗北さる可しと我輩も信じ世人も疑わざることあらん佛蘭西の申條最初より道理に叶って優しきもの〓非を甚だ以て無理非道なるが如くなれども今の世界にて國と國との交わりは常に道理の行わるゝものは非ず詰る處は兵力次第にて如何ようにも爲る其劇しき最中に居て支那人が迂闊にも唯古風なる事のみを申して國の恥辱を招き〓る〓氣の毒ながら自業自得と言わざるを得ず之を喩えば昔の武士が武藝を怠り〓るが爲に人に辱められたる者に異ならず理不盡に人を辱しむるは譽む可きに非ざるも武士にして武邊の嗜〓〓〓自分に落度にして他を怨む可からず今の世界に國を立てながら世界の事態を知らず自國の兵備を怠るは武士にして武道を知らず武藝を忘れたる者なれば支那人は失体不面目に就いては我輩唯一時哀憐の情を催すにのみをして其所業を許されば一も賛成に可たものを見出さざるなり然りと雖も我日本國に於いて迷惑至極と申すは西洋諸國の人が今度支那人の伎〓を見て亞細亞全体を同一様に評を下だし亞細亞洲の人は文明のものたるを知らざる者なり頑固不文唯古風を募るのみにて世界の大勢は後るゝ者なり斯る人民國士〓〓牙に留まるに足らず之を何様に取扱うも何様は處分するも憚る所なる可からずとて全体に輕蔑なる其亞細亞洲の中に我日本國までも計え込まるゝが如きに間違はあるまじきやと我輩の大に心配する所なり譬えば西郡と東郡は相對し其東郡内の一大村がさんざんに面目を失いたるが爲に西郡人の目より見て東郡の村々を一様に心得、其大村の隣より一種特別に村ありと辨解するも容易に之に心を留めざるものゝの如し左れば支那に今回の大失敗は俗に所謂近處の面汚として特に其隣國たる我國の迷惑なり故に此際に當り日本は亞細亞洲中一種の國にして素より支那に異にして亦其他の東洋諸國に同じからず國の位置〓〓東洋に在れ、其文物は西洋に異ならず東洋中の一新西洋國なりとの實を示し其形跡を明〓してこれを世界中に披露せんとするは決して容易なる事業に非ず古風を慕い、古例を呼返し、古書を讀み、古言を信じ、東洋諸國と伍を成して西洋人の侮を蒙る〓、活〓開進西洋日新の風に從い共に文明の鉾を爭わんと欲する〓、國の運命を定むるは正に今日に在り國民上下の別なく早く覺悟する可きものなり