「-1慾念の程度如何」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「-1慾念の程度如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

-1慾念の程度如何

佛國人が交趾の殖民地を擴め安南全土を併呑するの志を包藏するや決して一日の事にあらず追て東京紅河の流を溯り支那雲南省に入るの商路を發見せし以來は慾念漸く熱度を増加し先つ其根據を同河の三角州に定め次第に上流に溯るに至りて形の如く其地方の土人と隙を生し争論絶え間あることなし此中東京の黒旗黨と稱するもの最も佛国人と拒くに力を尽したるなり支那政府は唇亡びて齒の寒からんことを恐れ安南爲中國之屬邦の議論を押立てゝ佛國を退けんとするのみならず竊かに境上に兵を出して黒旗黨に聲援し佛國人の進路を遮らんとせり此時に當り安南は尚ほ獨立國の名ありて未だ十分に佛國の制御を受けず順化府中央政府の政令國中に普及すること能はずと雖ども而も尚ほ吏人を東京に派して力を黒旗黨に添るの手段は決して之を怠らざりしなり依て佛國人は東京地方に在て且つ攻め且つ防き辛苦經營の傍に新に安南國と一紛議を生し突然順化府を砲撃して城下の盟を爲し安南全國を擧けて名は佛國の保護國と唱へながら其實は全く附庸の殖民地に變せしめたり是より以後佛軍は後顧の憂なく力を専らにして東京を經略し次第に黒旗及び支那軍を退けて遂に其全土を占領するに至りたり此時に當り佛國人の意中を推察するに未た必ずしも支那帝國を奪ふの計畫定まり居たりとは思はれず盖し佛國人の慾念熾ならざるにあらず兵力強からざるにあらずと雖ども公然東洋の最大帝國を敵手として一戰を試るまでの決心はなかりしものならん然るに安南の争論歳月に亘り佛清の關係漸く密接を増すに至りて佛國人も漸く支那の内情を詳かにし一歩を進め二歩を進むるに隨て益案外なる發明を爲すこと多く遂には當初此帝國に對して幾分の敬畏心を抱きしは全く見込み違ひなりし恨らくは最初より斷然たる處量を施し大に我版圖を擴め威光を燿かすの策に出てざりしことをとて只管當初の規模の過小なりしを悔ひ佛國の人心漸く奮進の傾向を示したるは今より六七箇月前の事なりし左ればにや彼の天津條約の如き唯支那より償金を出すの一事こそなけれ安南東京の全土を擧けて佛國の所領と爲すのみならず剰さへこれに接する支那帝國の三省を開きて佛國人の自由貿易に供したる程のものなれば佛國人が失ひし所の少額の勞役に對しては甚た過當の報酬なりと云はざるを得ず然るに既に支那人の伎倆を洞見したるの今日佛蘭西共和政府は此過當報酬を得るも敢てこれに満足せず尚ほ何をがなと思案の最中幸にして郎松の一敗あり此機失ふべからずとて卒然二億五千萬「フランク」の償金を支那政府に要求し談判の始終毫も郎松事件の曲直佛軍清軍其〓孰れに在るやを論究することを爲さず唯我れは足下に向て償金を要求すこれを諾すると否ざるとは足下の意見に任す諾か否か唯一言の返答あれ否なれは則ち戰ふのみとありて佛國政府の擧動最初よりして甚た穩かならざりしかとも支那政府にては尚ほ未たこれに應するの色なく荏苒日を移して機を誤まるの恐あるに至り忽ち雞籠を砲撃して以て平和の望を絶ち兎角する間に公然福州に開戰して全く兩國の交を絶ちたるは佛國政府の身に取りて嘸かし本望の事なるべし

さて今日佛國軍略の在る處を察するに二十年前英國と聯合して北京を乗取りたるの例に因らず先つ雞籠、福州等に占據せんとするは盖し其意の在る處支那も廿年前の支那にあらず天津の門口を打破るも決して廿年前の攻撃力を以て足れりとすべからず必ずや先づ適宜の地に根據の塲所を設け漸く進て門口に迫るの計を爲さゞるべからずと云ふにやあらん故に先つ雞籠の石炭坑と福州の造船所とを取り軍需兵仗の供給に不足なからしむるの用意を了りたる上にて更に其力を他方に伸べんとすることならんか果して然らば爰に佛軍の擧動に付一の不審と云ふべきは八月五日雞籠港を砲撃の後永くこれに占據したる樣子もなく又廿三日福州港内にて開戰したる時も馬尾の造船所を砲撃して微塵と爲したりと云ふが如き甚た無謀の處置たるを免かれざるべし何となれば石炭坑は其地を占領して其石炭を採掘し造船所は其諸器械等を整備し置きて急需に應すればこそ軍事に大用を爲すなれ唯これを砲撃したる儘にして棄てゝ守らず造船所一切の構造を破壊して殘す所なくては此兩處を軍用に供するの目的に齟齬せざるを得ず佛國將軍にして斯る事理を辨せざる筈なきに其實跡に於て然らざるは何ぞや察するに支那海佛國の軍備尚甚た手薄にして永く雞籠を守るの餘裕なく又福州港の戰に於ても成る可くは無疵にして造船所を奪ふの手段を廻らしたるならんなれども思ひの外に支那軍の抗抵強く止むを得ず大切なる造船所をも破壊したる譯にてもあらんか殊に今日に至り佛國艦隊が福州閩江沿岸の砲臺を破壊し了りて忽ち他に方向を轉したるを見れば目下唯出沒各要衝の地を攻撃して只管破壊騒擾を手技とするものゝ如く然り是全く兵力の未だ十分ならずして尚ほ待つ所あるが爲めならんか以上は今日までの戰况なりと雖ども斯る小仕掛けの争闘にして今回の紛議を終るべしとは思はれず必ずやこれを手始めとして更にこれに幾十倍するの大擧動あるの後ならでは迚も轍すく和睦の沙汰を聞くことなかるべし左すれば佛軍は是よりして何等の處置を爲さんとするか先つ江蘇、福建、浙江地方を略取せんとするか或は北に進て北京に迫らんとするか又或は遠く南に去りて廣東、廣西、雲南地方を侵略せんとするか其定算の何れに在るかは我輩が今日に臆定すること能はさる所なり然れども我輩が今日に明言して差支えなき一事は佛軍の尚ほ甚た手薄なる事是なり佛軍にして果して閩浙地方に據り或は北京に進み又或は兩廣雲南を侵さんとするの意あるか迚も今の東洋艦隊數十隻の兵力のみにて足るべきにあらず故に佛國にして今日直ちに其封豕長蛇の慾を滿足せしめんとするの決心ならんには我輩は日ならずして數萬の佛軍本國を發して支那へ向ひたりとの電報を接すること必然ならんと信するなり