「以て人を生かす可く以て人を殺す可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「以て人を生かす可く以て人を殺す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

以て人を生かす可く以て人を殺す可し

交通法の文明社會に大切なるは今更喋々するを須たず弱者をして強ならしめ、貧者をして富を致さしめ、愚人にして能く智者の事を行ひ、智人にして愚を働くも交通法を用るの巧拙に在て存するもの多し之を要するに世運の盛衰、社會の治乱一切萬事皆交通法に依頼するものと云ふも可なり然りと雖ども凡そ天下の事物其効力の大なるものは其害も亦恐る可きものあり藥品にて云へば阿片劑の以て人を生かす可く又殺す可きが如し交通の法其利甚た利なりと雖ども之を利用して社會の益を爲し又害を爲すは唯其人に在て存するが故に惡人の手に渡せば惡を爲す可く善人の用に供すれば善を爲す可し而して社會は善惡雜居の社會にして交通の用法に制限あらざれば今の至便の法を以て如何なる害惡を致す可きや測る可らす其趣は猶かの阿片劑の用法に制限なくして徃々治療を誤り甚しきは人を毒殺するが如き慘状を見るものゝ如し左れば今日の社會に在る者は交通法を利用して自から利し又他を利することを勉るのみならず之を利すると同時に其害を遮るの工風も亦甚だ緊要なりとす即ち世に阿片劑なるものあるを知るからには唯其効能の粹を取るのみにして中毒の害を避るがためには最も注意を要することを知る可し昔の醫學士は阿片の効力を説き其利害両用の鋭きを雙刃刀に喩へたり我輩は今日交通法の利害を説くにも亦この喩を借用せんと欲するものなり交通の法これを利用すれば其功徳菩薩の如く其害惡夜叉の如しと云て可ならん

前記の論旨は古今の人事に適用して違ふことなきものなれども尚讀者の了解を便にせんが爲に今日の實際に當てゝ之を説かん方今我日本國中の注意を引て間接直接に利害を覺へ、今の方向のため、後の覺悟のために片時も等閑にす可らざるものは佛清の事件にして朝に夕に其事情を知るの方便は唯電信の交通あるのみ即ち天下の耳目精神は西來の電報に由て左右進退し隨て商賣上有形の利害も之が爲に浮沈し、一浮一沈其間に髪を容れず電信交通の遅速瞬刻の前後を以て大利害に關するもの多し交通法の効用を見るに適切なる時節と云ふ可し斯る時節に當ては單に交通法を利用して自他の利益を保護するのみならず害を防くの事も亦甚た大切なるものにして一度び電報に誤らるゝときは復た挽回す可らざるの害を被ることある可し例へば本月初より三日四日の頃まで銀貨の相塲は凡そ一圓五錢少餘にして曾て變動なかりし者が六日に至り東京市中に説を作り支那より電報到來したりとて其言に「クルベー提督は道台の請に應じ更に一段の談判を開かんとす、北京在留の各國公使は平和の談判を爲すべき旨を清廷に勸告したり云々」の次第を公布し此報に依れば佛清事件も干戈を敗るに至る可しと傳へ又傳へて遂には東京二三の新聞紙にまで掲載したれば兼ねて交通に迂闊なる市民は一時に之を信し其影響は忽ち銀貨の相塲に及ぼして五錢少餘のものが六日は頓に下落して四錢以下に下り尚弱氣を現はしたりと云ふ抑も此訛傳は何者の作なるや支那より斯る電報の到來せざるは明白に探知し得たれども其作者の所在は之を知るに由なし依て我輩が臆測邪推を下せば何れにも投機商の手に成りて一時銀米等の相場を僥倖したるものならんかと斷定せさるを得ず如何となれば訛傳を傳るにも多少の雜費のために資金なかる可らず如何に好事家なればとて心を勞し金を費して無益有害の戯を爲す者はなかる可しと思へばなり依て臆測の如く相塲師の作として視れば其利害決して少小ならず仮に其發起者が三日四日の頃銀貨一圓に付一圓五錢の約束を以て三十萬圓を賣り一兩日を經て四錢に下れば一錢の差、三十萬圓の高にて三千圓を掠め去る可し或は又四錢に下りたる日に三十萬圓を買ふて一兩日を過ぎ訛傳果して訛なるの實を現はし本の五錢に復するときも同樣の利益を見る可し何れも一報の訛傳三千圓金を得失せしめて失者は永遠無窮の損害を被りたる者なりと云はざるを得ず方今商况不景氣のため銀貨の相塲も自から活發ならざればこそ三千圓の得失に止まるなれども若しも両三年前の景氣にて四十銭五十銭と云ふが如き相塲の時節ならば和戰の一報よく一二十銭を動かし三千圓の代りに三萬圓又六萬圓の勝敗を決したることならん商賣社會の〓動と云ふ可し畢竟其本を尋れば投機奸商の奸惡む可きは勿論なれども亦其失敗者の心掛けも宜しからず今の文明の世に居り今の交通の利器あるを知りながら自家に此利器を利用せざるのみか他人の之を利用する景况にも注意せず、坐して報知の到來を待ち其報知のまゝに之を信ずるのみにして本來時勢の大体を知らず、斯る電報の到來す可き時機なるや否を推考せず、其電報の出處を問はず、其報道者の性質を詳にせず道に聞て途に説くを聞き、之に依頼して大切なる財産を賭し、五銭にて賣らんと云へば之を買ひ四銭にて買はんと云へば之を賣り兩三日の幻妖其馬脚を現はすに至て茫然たるが如きは文明社會の商人に非ず醫學進歩すれば劇藥の用法も亦進歩して能く人を利し又能く人を害す又或は之を宜しからざる目的に利用して人命を傷ふこともなきに非ざれば苟も身を重んずる者は常に注意して服用を愼まざる可らず今回支那電報の訛傳果して相塲師の作に出てゝ實効を奏し其幻妖に瞞着せられて財を失ふたる者もあらば我輩は其不幸を憐むの傍に兼て又其不注意を咎めざるを得ず盖し庸醫に身を托して阿片を服し毒婦に欺かれて「モルヒネ」を呑むが如きは此流の痴漢たる可きのみ