「夜叉か菩薩か」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「夜叉か菩薩か」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

夜叉か菩薩か

佛清の戰争は東洋の大事にして亦世界の大事なり佛國人にして支那に對し遽かに其志を得ること能はざらしめんか佛清兩國の間兵禍永く結ぼりて解る時なく支那と貿易の關係を有するの諸國は悉皆非常の損害を被るなるべし英國は東洋に對する最第一の貿易國なり支那の外國貿易一箇年の輸出入一億餘圓此内過半は英吉利本國及び其属邦印度國との貿易より成立つなり故に佛清戰争のために支那の貿易を中止し大に商利を奪はるゝ者は世界中英國を以て第一とすべし今此英國にして悠々佛清の戰争を傍觀するの理なきなり又佛國人にして大に其力を今回の戰に致し海陸の軍略を巧にして十分の勝利を博することあらんか佛國は必ず戰勝の威力を以て飽くまで強く支那政府に要求し償金の外に新に土地を割かしむるの工風を爲すべきや疑を容れず佛國は去年以來の遠征に既に安南東京を略取して東洋に第二の印度を作る其基礎正に成るの趣あるに今又支那の或る要地を占領するに於ては其威權日に益重きを加へ異日亞細亞の極東に最第一の權勢を有する者は必す三色旗ならんこと今より期して待つを得べし然るに目下印度濠洲を始め東洋各要衝の地方に領地を有し貿易上の利益は勿論政治上に強大無比の權力を掌握する者は佛國にあらずして英國なり今此英國にして悠々佛清の戰争を傍觀し自家權力の失墜を憂へざるの理なきなり然るに其實際に於ては大に然らず郎松事件の發出以來米國政府の如き佛清両國に對して左まで近密の關係を有せざる者まで頻りに仲裁調和に奔走する其傍に貿易上にも政治上にも自家の頭上に直接の大關係を有する英國にして悠々閑坐顧眄する樣子さへなく最初よりして世界に佛清事件なるものあるを知らざるが如く或はこれを知るも佛と清との戰争は佛と清とのみに關する事にて英國の利害には關係することなしと深く信して疑はざるものゝ如き外貌を妝ひ在りしは實に解すべからざる擧動にして其原由は如何其眞意は如何と我輩が度々論陳して大に疑を存したる所なり

然るに今回彌よ此疑問を解くべきの時節到來したりと云ふは去る七日福州の?江に於て英國軍艦「ゼフヒヤ」號が突然支那砲臺よりの砲撃に遇ひ士官兵士の重傷を負ふ者數名ありたる事是なり砲撃の原因は目下尚ほ未た詳かならず或は曰く佛國軍艦が?江の砲臺を砲撃して立去ると間もなく引違へて英國軍艦が入來りたるに付砲臺にては前の佛艦なりと心得直ちに英艦に向て砲火を開きたるなりと或は曰く支那兵士は福州羅星塔碇泊所の外國人の居舘を誰れ彼れの區別なく劫掠し眼中英佛魯獨の區別なき折柄入港の軍艦は仮令其檣頭に英旗を翻へすにもせよ一個の外國船には相違なきゆえ直ちに打拂ひたるまでのことにて固より英佛の區別を爲さゞルの覺悟なりと此説孰れか是なるを知らずと雖ども兎に角に英國の軍艦が支那の兵士に砲撃せられ士官兵士に負傷ありたるは事實なり偖斯く英國軍艦にして無法の砲撃を受けたる以上は大不列顛女皇陛下の政府は支那政府に向て何樣の掛合を始むべきや奇貨居くべしと云て直ちに巨大の要求を呈出しこれを承諾せざるに於ては咸豊の昔の如く英佛兩國力を協せて再び北京に攻入るの勢を示すか、又は過誤は人間に免かるべからざる事なり佛艦と見誤まられて砲撃に遇ひたるは我軍艦の不幸なり必ずしも人を咎むべきにあらずと云て數萬両の治療代位を請ひ受けたるまでにて別に恨を遺さゞるべきか、以て夜叉たるべく以て菩薩たるべく、此處實に肝心肝要なる分け目の塲所なり、英國政府は寛嚴果して孰れの方向に其政策を定むべきや英國にして或は既に佛國と内約する所ありて利益を分つの密謀あらしむるか又は内約密謀の未た定まるものなしと雖ども天の與ふるを取らされば却て其禍を受く我れ今此好機會に際して自から我利益を謀らざれば悔ふとも及ぶべからざるの時來らんとて先つ其欲を濟すの道を求めんとするか其方法甚た容易なり仮令支那政府の兵士が英國軍艦に向て發砲し國旗を辱かしめ艦士を傷けたるの一事は明々白々なる事實にして致害者たる支那政府は兎に角に其責を免かるゝこと能はず既に其責の在る所明白なる以上は北京の英國公使「パークス」氏に訓令を傳へ整々堂々嚴重至極の掛合を爲さしむるも誰か英國を評して無理無法なりと云ふ者あらんや去る六月郎松の一戰は其曲直佛清孰れに在るや未た分明ならず世界の衆論は佛軍より事を求めて佛軍自から敗走の恥辱を取りたるものなりと評し合へる此一事變すら尚ほ且つ二億五千萬「フランク」の償金を要求するの人あり?江砲撃の如きは其罪明かに清國に在ること清國政府の自認する所にして既に曲直の争を要せず斯る公正の問題を提け來りて數千萬の償金を要求するは實に當然の處置なればとて軍艦兵士以て恐嚇を逞くし大に今の北京政府に要することあらんには江蘇省地方に於て第二の香港を作る位の事は手を覆すよりも容易なるべし然れども英國政府にして小欲の爲めに大利を損せず其志尚ほ甚た遠大ならんには今回の談判に當りて特に佛面温顔を妝ひ英國佛國均しく西洋に國するものなりと雖ども西洋人必ずしも皆貪婪無法ならず今回の事件即ち其適證なり我英國人を取て彼の佛國人に對比すべし雙方の間に氷済も啻ならざる相違あるを認め得べし自今永く支那人の信用を措くべきものは西洋唯一つの英國あるのみなりとの事を説得するの政策に出ることならん兎に角に?江の砲撃は英清兩國間の一大事件なれば英國政府は何れの方向にかこれを利用するの策を運らすことならん我輩は其方向を見て或は今の英國政府の意中を察知するを得べきか