「滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん

大清一統二百二十年其間に治乱の樣は一成らずと雖ども愛親覺羅氏の名聲は四百餘州に赫々として普天の下率土の濱これに畏服せざるものなし前年長毛賊の乱の如き一時或は北京の安寧も如何と掛念する程の次第なりしかとも天命順に歸して再び青天白日の治を見るに至りしものも決して偶然に非ず盖し宗祖康?乾隆二帝の如きは唯清朝の名君と稱す可きのみに非ず支那歴代の帝王中比類なき空前絶後の英主にして治術に富み允に文允に武にして百世の業を遺し後世子孫頼て以て其遺業を守りて今日の隆盛を致したるものなれば政府の基礎固しと云ふ可し即ち東洋流の君主政体に於ては他の模範とも爲る可き治風にして間然す可き者あらざるなり

然りと雖ども爰に眼を轉して西洋文明の點より觀察を下たすときは我輩は滿清政府の健康を見ざるのみならず其衰朽將に斃れんとするの事實誠に明白なるものゝ如し其治風都を寛仁大度を旨とし仁を以て下を御するの教なれども其仁徳の恩澤を被る者は官吏の一類にして下民は之に與かるを得ざるのみならず民の膏血は以て官吏を潤ほすの資たるに過きず又其官吏中に於ても下官は中官に奉し中官は上官に奉するの慣行にして大政府の公法に於て吏人の俸給を聞けば甚た薄俸にして驚く可き高なれども退て其私に就て生計の有樣を見れば其豊なること又驚くに堪へたり在昔我徳川政府の時代に市井掛り小吏輩が一年僅に數十俵の給米を收領して妻子の糊口にさへ窮す可き筈なるに其内實は金衣玉食して得々たりしものゝ如し〓言これを役徳と云ふ即ち市民より常に依頼の事に付き歳次月次に贈る所の音物、又は不時の公事詞訟に關して私托するための賄賂等にして云はゞ小吏が法律を賣却して私に其代償を落手するものなり徳川政府にては此惡弊流行とは云ひながら専ら小吏中に行はれたることなれども支那に於ては政府全般に風を成して曾て咎る者もなく偶ま役徳を辭する者あれば却て世に怪訝せられ之を廉吏と稱して殆と奇物の觀を爲し官途に齒せらるゝこと難しと云ふ例へば兵隊は護國の本にして之を御するの法も特別に軍律なるものを設け嚴重の上にも嚴重にするは文明諸國の慣行にして我日本に於ても同樣軍律の嚴なるは人の知る所ならん軍中に私曲の事あらんとは我々の想像に及ばざる所なるに支那軍の奇なる、兵員の名稱は幾千幾萬と稱して其實は半數にも足らざる者ありと云ふ其然る所以を尋るに例へば三千の兵を養ふに一人一月の費用六兩として一萬八千両の金は官の筋より之を請取り實際半數は空員にして其人なきが故に軍費の半數九千兩は將校の私嚢に入て其役徳と爲る即ち一千五百の兵を懐中に私するものなり軍人にして尚且斯の如し地方施政の弊の如き推して知る可し租税徭役の法、名は一定に定まると雖ども人民にて之を避くるの法も亦甚た難からず例へば厘金として全國の商品を運搬するに所在の關所にて原價百分一を収むるの法なれども其収税吏なるものは特に責任を帯びたる大官に非ず故に公然たる厘金を算すれば一百両を拂ふ可き處に半額五十両を吏人の袂に投して關門をば無税に通過し吏民の問に百両を半折して利するの策ありと云ふ此種の事を計れば枚挙に遑あらず結局支那國中にて國役の重きを負ふ者は唯無智の小民あるのみと云て事實を誤らざることならん、大官は中官を絞り中官は小官を絞り上より下に至るまで幾段となく絞り又絞りて其最下層に無數の小民ありて全体の壓力を受け偶ま廉吏に逢へば不思議の僥倖、然らざれば其艱難を告るに道なく世々曲をを蒙りながら殆と習爲性の有樣を以て二百餘念を持續したることなり

支那社會の内部、其醜斯の如くにして文明の眼を以て視れば一日も立國の体面を保つこそ不可思議の樣なれども實際に於ては國を立るのみならず中央の政權四方に明にして敢て之に抗する者を見ず之を名けて帝徳民に被ると稱す、事相の表裏天淵の差違と云ふ可し盖事の實際に於ては萬民曾て政府の徳澤を被るに非す限りなきの不平内に〓〓すと雖ども之を外に散するの道を得ずして却て無事の僞相を呈するのみ且其不平たるや一樣に不平なるに非ず局處に不平の部分あれば其隣は則ち得意の部分にして之を平均すれば不平の部分固より多しと雖ども恰も間に介在する得意の部分に遮ふれて此處の不平と彼處の不平と連絡するを得ず況や北京を去ること千萬里外の群民如何なる曲を積ればとて之を中央政府に告訴せんなどゝは思も寄らぬことにして北京の遠き天の如く其高き亦天の如し之を知らずして唯其尊嚴に畏服するのみ、無告の民を憐むは〓人の仁政なりと云ふと雖ども支那の社會は告訴の方便なきが故に政府をして仁政の名を成さしめたるものにして大清一統二百二十年の太平は交通不便の賜なりと云ふ可し

然るに輓近支那國内にも西洋の文明を入れ海陸の兵制等も漸く西洋流の端を開き就中昨年來佛蘭西との葛藤に就ては國内交通の不便を感して俄に電信鐡道の利用に着目し電信は既に九省に亘りて四十三局を開き鐡道も近日天津通州間に敷設せんとの談あり畢竟是等は兵事の急に迫られたる工業なりと雖ども一度之を利用するときは支那人鈍なりと雖ども其利味を忘るゝ能はずして其電線を延長し其鐡道を増敷し又同時に郵便の法をも採用するは必然の勢いにして四百餘州交通の便は日ならずして面目を改ることならん然り面して此交通の便利獨り政府に属すれば則ち可なりと雖ども如何せん其利器は官民共有のものにして政府の専用を許さず、交通の利器既に人民の手に在り其功用如何なる可きや著書新聞紙の流行は今日に十倍し書信電報都で不平を洩らすの器たらざるものなし速刷の活字は不平を印し、御用の郵便局は不平の新聞紙を配達し、萬里の電線瞬刻に不平を通し、千里の鐡道一夜に不平を載せて行く是に於てか彼の不平の局處に孤立するものも始て連絡を通し彼の天外なる北京政府の實况も始めて明白と爲り政府の威光も聖人の仁徳も始めて馬脚を露はして民心始めて豁然たり又茫然たる可し是を亂機の熟したるものと云ふ故に我輩の見る所を以てするに今回佛清の事件が如何に局を結び他諸外國の意見が如何に傾向して如何なる成跡を見るも治にも亂にも支那國に文明侵入の道は既に開て復た閉づ可らず滿清政府仮令ひ西洋の兵力に敵するを得るも文明の力に抗するは難し故に云く滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならんと