「佛清事件は歐洲の政治論に關係あり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「佛清事件は歐洲の政治論に關係あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛清事件は歐洲の政治論に關係あり

今回の佛清戰争は其當局者たる支那國に取りて未曾有の大事件たるは申す迄もなく我日本國の如きも一衣帯水を隔てゝ其海陸戰争の硝烟を望む可きの地位に立てば百事の關係貴重緊急なること外に比類なかる可し故に佛清の戰争は東洋の一大事件たること疑なしと雖ども我輩を以て之を見れば此事件たるや唯東洋の利害を動かすのみならず兼て又歐洲政治上の問題に關係するものなり今其次第如何と云ふに從來歐洲の政治論に共和、立君の二派ありて議論紛々今に底止する所なく共和政治を贊成するものは其寛大自由なるを稱し立君政治に左袒するものは之を評して活發敢爲なりと云ひ各其所長に誇ると雖ども歐洲一般の人民は從來共和政府の運動を鑑み之を立君の政に比較して窃かに疑惑する所なきに非ず北米合衆國の共和政治は一種特別の事情にて一種特別の形を成したるものなれは今姑く之を棄て置き更に歐洲諸國中にて共和政治の鼻祖とも稱す可きものを求むるに佛國の右に出るものなからん然るに其共和政治は古來常に不首尾にして佛國一たび共和政治に變すれは之を立君政治の日に比して其國光漸く曇り其武威も亦屈して國の名聞頓に寂々然たるの痕跡あるものゝ如し前古の事は姑く擱き唯十九世紀の事實に就て之を徴するも千八百三年に「ナポレヲン」第一世南面して帝と稱してより蒼隼一睨して群雀の寂然たる如く歐洲諸國屏息して敢て之を仰視するものなきの勢なりしが同十五年「ヲートルロー」の一敗にて帝業忽ち蹉躓し去り尋て「ルイ」十八世父祖の餘蔭を以て佛王の位に登りたれども暫時にして其位に崩し未た幾ばくならずして佛國は共和政治の體裁を成したるが其政治の持續する間は古來歐洲中の侠國たるにも似ず其名聲頓に沈んで功業の以て記憶す可きものなし其後千八百五十三年「ナポレヲン」第三世の帝位に登るや翌年英國と聯合して進んで土耳古の後援を爲し強露の鋒を「クリミヤ」の半島に挫きたるを始めとし餘勢忽ち歐洲の列國を凌き天下の美麗精工を集めて之を巴里の府城に致し歐洲中の耳目をして皆この花の都に注かしめたる其有樣は佛國人民の肝に銘して今に忘却する能はざる所なりし其後「ナポレヲン」第三世、普魯西と戰ひ「セダン」の一敗地に塗れて英國の謫客と爲りたれば「グレヴヰー」「フレシネ」「ガンベツタ」の徒は其機に乗して共和政治を回復し爾後十餘年赫々の功もなくして以て近來に至りたるが現任宰相「フエリー」氏が昨年二月内閣を組織してより安南遠征の師を興して東京地方の蠶食を試み事漸く枝葉を生して本年六月には郎松事件なるものを惹き起し尋て上海の談判破裂と爲り鷄籠福州の砲撃と爲り以て今日に至りたれども佛國最初の目的は漸次に事を爲すに在りて蠶の桑葉を食ふが如く次第に其侵略を成就し所謂蠶食の策を用ゐんとしたるに支那政府の腰骨案外に強く今は斷然佛國と相抗争せんするの勢なれば蠶食の策は既に破れ第二之を鯨呑するか或は閉口赤面して其手を収めざるを得ず然りと雖ども佛國は斯る塲合に際會して今更手を引く譯にも行かねば唯鋭意決心して此塲合に處せざる可らず現に本月十四日上海よりの電報に佛國政府は水師提督「クルベー」氏に向て清國何れの地を問はず隨意に攻撃占據す可きとの訓令を傳へたりと云へば軍費の續かん限り、兵力の及ばん限りは大に交戰するの見込みなる可し斯くて佛軍の向ふ所前なく百戰百勝一擧して支那の急所を取り押へ城下の盟頃刻に成りて其軍費を償ふの外に更に土地玉帛を要取し佛軍の凱歌東洋に響き三色旗に軍艦鷁首を並べて馬耳塞及び「ツーロン」の港口に凱旋したらば從來歐洲の人民が徒に佛國の歴史を鑑み共和政治は緩慢にして敢爲の機轉に乏しきものなり、武威を損して赫々の功を?くものなり抔、種々の臆斷を回らしたるも眼前の偉業を目撃して共和政治の威徳に驚き扨こそ從來の臆斷は果して眞の臆斷なりとて共和萬歳の聲と共に佛國政府「アルプス」山の安を保ち其影響は各國に波及して歐洲人の共和政治と云へる思想を一變し其政治に一層の尊嚴を加ふることならん然りと雖ども戰は危事なり其勝敗は常ならず支那政府にして斷然其志を決し野を清め壁を固うして局部の小敗を顧みず老虎〓を深林に負ふの策略に出でたらば佛軍強なりと雖ども主客勢を異にして勞逸も亦同しからざるが故に徒に時日を遷延し本國にては軍費の重疊するを以て在野の反對黨は不平を唱へて其攻撃の鋒を現内閣に集め内閣も亦之れに耐ゆる能はざるに至り佛國人民の豫期に背きて東洋の經略中道にして蹉?たりと云ふが如きことなしとも云ふ可らず果して然らんには佛國現内閣の交迭は申す迄もなく其共和政治の命運も危く從來共和の弱點に注目したる政治家は果して然り、共和政治は以て偉大の業を成すに足らずとて頓に政論の趣を變し共和政治に對する從來の尊敬信用も大に其度を減するに至らん故に今回の佛清戰争は唯東洋の利害に關するのみに非ずして一勝一敗は歐洲一般の思想を變し政治上根庭の問題を抑揚するに足る可しと信するなり