「支那風擯斥すべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「支那風擯斥すべし」を文字に起こしたものです。

  • 『福澤諭吉全集 第 10 巻』(岩波書店、1960 年)所収の論説、「支那風擯斥すべし」(49 頁から 52 頁)
  • 18840927
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本文

第一段落

支那人と日本人と共に東洋に国して其心情風俗の異なるは普く世界中に明白なる事実にして、就中其著しきものを云えば、支那の開国は百余年にして日本の開国は 30 年、前後 70 年の差あるにも拘わらず、支那人の遅鈍なる、文明の何事たるを知らず、近来少しく西洋に採る所ありと云うも、唯其器を利用するに止まり、曾て文明の主義如何を問う者なし。 其主義を究めずして其器を採る、智見は唯外見の形体のみに止まりて進歩の望あるべからず。 之を我日本人が開国の一挙と共に人心を一新し、数百年来の旧套を脱却して新文明を慕い、無形の心に従て有形の事物を採用し、30 年の日浅しと雖ども今日尚進歩して止まざるものに比すれば、氷炭の差違啻ならずと云うべし。 蓋し日支二国人が斯くも明白なる反対相を呈する其原因は、立国始源の異同もあらん、数千百年の教育にも存することならん、その原因一にして足らざるべしと雖ども、西洋の文明に関して一は心より之を変化し一は唯外形に止まる其近因を求るに、我輩の鄙見を以てすれば、西洋の文脈が此二国に入る其時に入門の路を異にしたる故なりと断定せざるを得ず。 何をか入門の路を異にすと云う。 日本の文明は国人の上流より入り、支那の文明は下流よりしたること、即是なり。 支那国民が西洋人に接したるは既に百余年の昔に在りと雖ども、其相接するの要は唯商売貿易の一事のみにして、外より来る者も利の為に来り、内より応ずる者も利の為に応じ、交際の元素、利の外に一物もあることなければ、外来の西洋人中、固より学者士君子のあるべきに非ず、仮令いこれあればとて、支那の郡民、学問の思想あるべきに非ず、或は其郡民中、能く洋語を解する者もあらんと雖ども、唯日常の語を語るに止まりて、曾て知識伝達の媒介たることなし。 其実体を求めんとならば、百年来支那に洋語を語る者の数甚だ多しと雖ども、其国輸入品の中に西洋書籍の少きを見て知るべし。 就中事物の真理原則に関する科学書等の如きは殆ど絶無と云うも可なり。 如何となれば支那貿易の商民等は書を読むの要あらざればなり。 斯る事情なるが故に、上流人の眼より見ても、西洋人と云えば唯射利一方の賤丈夫にして与に語るに足らざるものと視做し、偶ま其船舶器械等に巧なるものあるも、単に之を夷狄の奇巧と称して奇視するのみ、曾て之が為に心を動かしたる者あるを聞かず。 他に心を動かさざれば自国の旧主義を尊信するも亦決して怪しむに足らず。 周公孔子の糟粕を嘗めて虚礼虚飾を尊び、陰陽五行に迷うて虚誕妄説を信じ、恬として省みざること、往々人をして喫驚せしむるもの多し。 三年の喪の虚礼を行うて喪中子を生まざるものなきが如きは、内行に属することとして之を許すも、学者博識の名を以て龍を談じ狐狸を語る等、其物理に無頓着なること我輩の想像の及ぶ所に非ず。 曾て聞く、一両年前米国「ワシントン」府在留の支那公使某が腸「カタル」を患い、米医の診察を受けたれども之を信ぜず、偶ま其時紐育ニューヨーク府に支那医の在留するあるを聞き、公使は 200 里の道を遠しとせずして紐育ニューヨークに行き、其支那医が本国より携えたる草根木皮を授かりて之を服用したりと云う。 頑迷も亦甚しと云うべし。 此の様子を以て察すれば、我東京の支那公使館に出入するものも、必ず我学者社会より日に擯斥せらるる漢医流ならんと臆測すべし。 支那より米国へ派遣せらるる公使の如きは、18 省中尤も文明開化の人物なるべきに、此人物にして斯の如し、推して一般の国情を知るべきなり。 蓋し人間世界万物の価は之を取扱う人の品格に従て上下すること人情の常にして、支那国に入りたる西洋の文明は、不幸にして最初より下人の取扱う所のものと為り、遂に真実の評価を得ずして今日上流の無頓着を致したることならんのみ。 之に反して我日本に於ては、徳川政府 250 余年の間、国禁厳にして西洋人に直接するを許さず、其際に当て我医学士の流が窃に荷蘭横文の書を取て講読の事を企て、随て其意味を解すれば随て其真理原則の無妄なるに心酔せざるはなし。 殊に其学士は何れも医流中の英傑にして、学問の社会には最も信を得たる人物なるが故に、当時政府の筋にこそ容れられざりしなれども、天下文学の士にして苟も奇骨ある者は窃に之に心を傾け、百年以来一種蘭学社会なるものを出現して、天保弘化の頃には漸く其流の盛大を致して、著書翻訳書の類に文明物理の真を記し、我上流士人の眼を犯して其心を啓きたるもの実に少なしとせず。 故に我政治上の開国より 30 年なれども、西洋文明の生誕は遠く百余年の古に在りて、然かも其入門の道は下等の商民よりせずして上流の士人よりしたるが故に、士人の取扱う所のものは自から其尊きを覚えしめ、荷蘭の医学、荷蘭の窮理、蘭書、蘭器、蘭服、蘭食等、何れも社会中に高上の部分を占めて之を軽侮するものなし。 固より、鎖国の日本なれば外国を忌む者多しと雖ども、其これを忌むの中に自から畏憚の意を含みたるは、即ち日本人が西洋の文明を重んずるの証として見るべきものなり。 左れば嘉永年間米人渡来の時に日本人が始めて外国人を見たりとは事実なれども、文明の予備は既に上流君子の間に洽ねくして、恰も其入来を待受けたるものと云うも可なり。 是即ち 30 年来日本文明の進歩、曾て中止することなくして世界無比の事例を示し、隣国に対して涇渭けいいの別を明にしたる由縁ならん。

第二段落

以上の立論果して違うことなくんば、到底今の支那人に向ては其開花を望むべからず。 人民開花せざれば之を敵とするも恐るるに足らず、之を友とするも精神上に利する所なし。 既に其利するなきを知らば、勉めて之を遠けて同流混淆の災を防ぎ、双方の交際は唯商売のみに止まりて、智識の交は一切これを断絶し、其国の教義を採らず、其風俗に倣わず、衣服什器玩弄の品に至るまでも、其実用の如何に拘わらず、他に代うべきものもあらば先ず支那品をしりぞくること緊要ならん。 我日本は今正に日新の国なり。 隣国の弊風を以て我文明を汚すの恐あればなり。