「支那風擯斥すべし」
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時事新報に掲載された「支那風擯斥すべし」を文字に起こしたものです。
- 『福澤諭吉全集 第 10 巻』(岩波書店、1960 年)所収の論説、「支那風擯斥すべし」(49 頁から 52 頁)
- 18840927
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本文
第一段落
支那人と日本人と共に東洋に国して其心情風俗の異なるは普く世界中に明白なる事実にして、就中其著しきものを云えば、支那の開国は百余年にして日本の開国は 30 年、前後 70 年の差あるにも拘わらず、支那人の遅鈍なる、文明の何事たるを知らず、近来少しく西洋に採る所ありと云うも、唯其器を利用するに止まり、曾て文明の主義如何を問う者なし。
其主義を究めずして其器を採る、智見は唯外見の形体のみに止まりて進歩の望あるべからず。
之を我日本人が開国の一挙と共に人心を一新し、数百年来の旧套を脱却して新文明を慕い、無形の心に従て有形の事物を採用し、30 年の日浅しと雖ども今日尚進歩して止まざるものに比すれば、氷炭の差違啻ならずと云うべし。
蓋し日支二国人が斯くも明白なる反対相を呈する其原因は、立国始源の異同もあらん、数千百年の教育にも存することならん、その原因一にして足らざるべしと雖ども、西洋の文明に関して一は心より之を変化し一は唯外形に止まる其近因を求るに、我輩の鄙見を以てすれば、西洋の文脈が此二国に入る其時に入門の路を異にしたる故なりと断定せざるを得ず。
何をか入門の路を異にすと云う。
日本の文明は国人の上流より入り、支那の文明は下流よりしたること、即是なり。
支那国民が西洋人に接したるは既に百余年の昔に在りと雖ども、其相接するの要は唯商売貿易の一事のみにして、外より来る者も利の為に来り、内より応ずる者も利の為に応じ、交際の元素、利の外に一物もあることなければ、外来の西洋人中、固より学者士君子のあるべきに非ず、仮令いこれあればとて、支那の郡民、学問の思想あるべきに非ず、或は其郡民中、能く洋語を解する者もあらんと雖ども、唯日常の語を語るに止まりて、曾て知識伝達の媒介たることなし。
其実体を求めんとならば、百年来支那に洋語を語る者の数甚だ多しと雖ども、其国輸入品の中に西洋書籍の少きを見て知るべし。
就中事物の真理原則に関する科学書等の如きは殆ど絶無と云うも可なり。
如何となれば支那貿易の商民等は書を読むの要あらざればなり。
斯る事情なるが故に、上流人の眼より見ても、西洋人と云えば唯射利一方の賤丈夫にして与に語るに足らざるものと視做し、偶ま其船舶器械等に巧なるものあるも、単に之を夷狄の奇巧と称して奇視するのみ、曾て之が為に心を動かしたる者あるを聞かず。
他に心を動かさざれば自国の旧主義を尊信するも亦決して怪しむに足らず。
周公孔子の糟粕を嘗めて虚礼虚飾を尊び、陰陽五行に迷うて虚誕妄説を信じ、恬として省みざること、往々人をして喫驚せしむるもの多し。
三年の喪の虚礼を行うて喪中子を生まざるものなきが如きは、内行に属することとして之を許すも、学者博識の名を以て龍を談じ狐狸を語る等、其物理に無頓着なること我輩の想像の及ぶ所に非ず。
曾て聞く、一両年前米国「ワシントン」府在留の支那公使某が腸「カタル」を患い、米医の診察を受けたれども之を信ぜず、偶ま其時
第二段落
以上の立論果して違うことなくんば、到底今の支那人に向ては其開花を望むべからず。
人民開花せざれば之を敵とするも恐るるに足らず、之を友とするも精神上に利する所なし。
既に其利するなきを知らば、勉めて之を遠けて同流混淆の災を防ぎ、双方の交際は唯商売のみに止まりて、智識の交は一切これを断絶し、其国の教義を採らず、其風俗に倣わず、衣服什器玩弄の品に至るまでも、其実用の如何に拘わらず、他に代うべきものもあらば先ず支那品を