「俎上の肉」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「俎上の肉」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

俎上の肉

今回の佛清事件は早晩滿清政府が覆滅の疑問に影響する一大事件にして支那全國人の宜しく大に其心を惱ますべき事柄なるのみならず歐米列國も自家銘々の頭上に巨大の利害を感するものにして決してこれを度外に置き得る事柄にあらざるなり歐米列國人をして虚心平氣に一考せしめよ今の支那國を如何に處置せば最も我望に適ふべきや現在の儘の支那國にして永く此有樣を維持し毫も異存なかるべきや否や歐米は頗る道徳論の流行する國々なりと雖ども如何に道徳論者とは云へ一國は自分一國を支配するの權あるが故に支那國が自分の勝手を以て鎖國するとも攘夷するとも夫は支那人の心次第敢て我々歐米人の喙を容るべき限にあらずとまでは得云うまじ交際は人間の道なり支那人獨り其國土を専らにし外人に向て門戸を封鎖し貿易交通も禁するの權理なしとの論位は必ず唱ることならん道徳論者既に支那の鎖國を承諾せざる勢なれば其以上卓見高識の士に至ては無論支那全國を打開き文明の大風をして四百餘州を吹靡かしめんとの本心ならんこと明白至極の事實なるべし即ち歐米人は支那全國に鉄道を敷き電線を架し郵便を設けて國内何れの處を問はず自由自在に雑居徃來して大に貿易を進むることを希望するならん支那國土の廣き其人民の多きは大略我日本に十倍せり然るに其外國貿易は一年僅かに一億圓我日本の貿易に五割を加へたるものゝみ國土人民は日本の十倍して其貿易はこれを二倍すること能はず実に驚入りたる國柄と云ふべし依て其政府人民を奬勵し大に文明の道に進むの工風を爲さんとするか今の支那政府は頑陋なる人民の無知なる腕力を以てこれに迫るの外何樣の力を以てするも到底此老大國を感動し得べからざることは今日までの實験に由て歐米人が飽くまで承知する所なるべし若し歐米人と支那人との交際をして從來の儘の有樣に存して改むる所なからしめんには百年を待つも支那國は依然たる今日の支那國にして荊棘文明の途に塞かり一歩も進むべからざるべし試に支那全國を一見すべし其人民こそ頑陋遅鈍なれ沃野千万里良田億兆頃、山林水澤五金の坑、天然の富勝げて用ひ尽すべからずや况や又數十世蓄積したる人造の富は敢て俄かに他の文明國人に譲らざるものも少なからざるをや一たび此郷に足を着け此人民を使用せんには何の商賣か爲すべからざらん何の工業か起すべからざらん何の富貴か求むべからざらん何の功名か博すべからざらん可惜を此國土人民を取て永く東洋の邊陬に遺棄し置くは所謂天の恵與を暴殄する者にして愚これより甚たしきはなし宜しく速かに謀を運らし「ヒマラヤ」山東に第二の印度を作るの事に從ふべきなりとの考を定めんは自然の人情にして避くべからざることなり左すれば今回の佛清事件たる兎に角に西人來りて東土を呑むの事業なるが故に其大體中に付ては全歐米人中一人として異議を唱る者なかるべきなり

果して前條の次第に相違なくは今回の佛清事件に付歐米列國は同心一致して各其力を佛國に併せ忽ちにして支那四百餘州を強奪するの謀を爲すべきに其實際に於ては未た必ずしも然らず今日に當り佛國尚ほ後顧の患あるが如き容色を爲すは何ぞやとの疑問あらん如何にも此疑問の如く事の大體上に於ては世界の貿易の爲めに支那全國を打開き時宜に由りては四億の人民を我隷屬たらしめんとするは固より歐米人の熱望して止まさる所なりと雖ども其細目に亘りては各人銘々に直接の利害を異にするが故に列國相互に他人の働きを牽掣して十分の自由を得せしめざるの跡なきにあらず今回佛清事件の如き一旦開戰の上にも尚ほ因循日月を消し佛人の遅鈍支那人の無神經に反照して一對の奇觀を呈し傍觀者の罵〓至らざる所なきも必竟するに支那處分の細目に關し歐洲列國の間に尚ほ未た十分の協議決定なきか爲めなるべし獨逸は曰く佛人我れに向て「セダン」の耻辱を雪かんことを思ひ膽を嘗め薪に臥す既に十年與みし易からざる強敵なりこれをして外征に奔走せしむるは歐洲の爲めに平和を買ふの第一策なり加之英人の東洋に跋扈するは我多年の恨なり佛人をして英人の路を遮らしむる亦甚た好しと魯西亞曰く我れ〓南の志を懐くこと一日にあらす然れども好機甚た乏しくして宿志未だ成らず〓〓なり又待ち遠なり今回の佛清事件亦我志を成すの一機會なりと故に此等の諸國は決して佛人の東洋侵略策を非難せざるのみならず或は陰に教唆する程のことなりと雖ども獨り英人に至ては則ち然らず東洋は既に英人の掌裡に在り其未た掌裡に在らざるものも其運命既に略ぼ確定せり此際に當り我臥楊の傍に他人の鼾睡を許さゞるは勿論我多年の勞費を以て亞細亞の極東に貯存し置きたる此珍膳に向ひ未た我一箸を下さゞるの前に他人の飽啖を許すの理なし所謂主客處を異にしたる悖戻の所置なり決して許すべからずと是れ英人の本心なり然れども爰に又英人の爲めに最も難澁なる一條は目下正に埃及國を略奪せんとして其事未た十分に成らざる事是なり今若し佛人の支那侵略を妨害せんか左なきだに遺恨滿腔如何にもして英人の埃及占領を妨んとする佛人をして更に又何樣の妨害を埃及政策に置かしむべきやも知るべからず埃及は印度の徃來に必由の門戸なりこれを他人に渡すべからず止むことなくんば臺灣なり舟山なり又福建全省なり佛人の取るに任し其間に我れは先つ埃及の占領を鞏固ならしむるに如かずと是亦英人が目下の心事なり今回佛清事件の兎角捗々しからざるは其理由盖し全く以上説く所の邊に在て存するものならん

歐米人の眼中支那人なく又支那政府なし此國土人民は何人に向て相談するを要せず直ちに取て自家銘々の所有品と爲すの覺悟なり然るに當時歐米人の眼界尚ほ未た十分に廣濶ならす狭き歐洲の間に畛域を分ちて兄弟墻に鬩くの外貌を皮相し世間或は強大國の嫉妬心頼て以て小弱國を安全ならしむるに足れりと爲し虎狼の群中に在て晏然坐睡するの豕羊なきにあらず危險此上なかるべきなり支那大國なりと雖ども既に歐米人が俎上の肉たり今更如何ともすべからざるのみ