「虎豹餌食を爭ふ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「虎豹餌食を爭ふ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

虎豹餌食を爭ふ

佛國水師提督「クルベー」が其率る所の十餘艘の艦隊を以て八月廿三日福州〓(門がまえ

に虫・ビン・以下同)江羅星塔碇泊所に於て支那の水軍と鏖戰し軍艦九艘を沈め廣艇幾十

を燒き其翌日は馬尾の造船所を砲撃して微塵に碎き夫れより又艦首を轉して江流を下り行

く行く金皮〓安等の砲臺を砲撃して一齊に破壞し尽し斯くて〓江を出るの後は數日間其徃

く處を知らず世人皆此艦隊の所在を測り得ざる折柄九月上旬十四艘の艦隊忽然として〓江

口の媽姐嶋に現はれたる以來既に一箇月の時日を經過したれとも此艦隊は依然同所に碇泊

して何の爲す所もなく進退何れとも決する所なきが如き有樣なるは世人の不審して措かざ

る所なり

佛國政府既に意を決して支那と交を絶ち台灣を砲撃し福州の水軍を滅歿し明に世界に示す

に開戰の實を以てしたる後忽ち逡巡して敢て遽に相迫らず十四艘の軍艦悠々福州の海に寄

泊して空しく糧食を費しつゝあるは其本意の在る所窺ひ知り易からざるなり盖し其原因は

必ず一二に止まらざるべしと雖とも其最も著しきものとして數ふべきは佛軍の兵力尚ほ甚

た不足なる一事もあるべし佛人の軍略唯徒らに破壞乱暴を主義とし某の砲臺を毀ち某の市

邑を燒き無益の殺生に支那人を恐怖せしめ又憤怒せしめんとするものならんには十餘艘の

軍艦は支那海及び其港灣を横行するに十分の力あり決して不足を感することなかるべしと

雖とも若しも其軍畧にして或は要衝の地を占領しこれを根據として永久の大策を運らさん

とするものならんには十餘艦の力未た以て此大用に任するに足らず必ずや數千或は數萬の

陸兵を得てこれと力を恊せ永く一所に止まりて寄せ手の支那兵を打拂ふの手配りなかるべ

からず是即ち「クルベー」提督が其率る所の艦隊と共に久しく〓江口に碇泊して未た何等

の運動をも始めざるものならんか然りと雖とも提督の緩漫は唯援軍の來るを待つに在り本

國政府も亦早く援軍を送りて功を収めんと欲するものなりと臆定して爰に一の不審は佛清

両國の間に和親の交全く絶え両國の海軍福州に鏖戰して清軍大敗以來既に六週間をも經た

るに此程漸く佛國より來着の軍艦は陸兵僅か千五百人計りを齎らすのみにしてこれに續き

數萬の援軍既に其途に就きたりとも聞えざる事なり支那兵如何に怯なりと雖とも其多數は

甚た恐るべし僅かに二三千の佛兵を以て帝國の要地を占領し永くこれを守りて能く其無數

の敵兵に抗し得べしとは佛國政府と雖とも決してこれを其心に許さゞることならん既に其

心に許さずして尚ほ其援軍の〓(さんずいに足か)遣を急がざるを見れば或は人をして佛

國政府は未た支那を撃つの決意なきか虎狼の兵を以て犬羊の軍を驅り功名を博し實利を攫

むの欲心なきかと疑はしむべきに似たりと雖とも其實は佛人寡欲にして支那侵撃を急がざ

るにあらず唯歐洲人甚た多欲にして獨り佛人に利を専らにせしむることを好まず彼等の間

に利益均分の議論尚ほ未た落着せざる所あるが爲めなるべし獨逸並に其頤使に従ふ墺地利、

伊太利等の諸國は今回の佛清事件に關し十分佛國を賛成して毫も其働きを妨けず魯西亞も

亦自家の利益を取て佛國の利益に結合し飽くまで佛人の東洋攻略を賛助すと雖とも獨り英

國はこれを賛すせず啻に賛せざるのみならず力の及ぶ限り如何にもしてこれを妨害せんと

するの意あり唯未た大にこれを事實に施さゞるのみ佛人既に英人の意中を知り其專横を怒

り其の貪婪厭くなきを惡むと雖とも其力未た以て英人に敵するに足らず仮令今回の事件に

關し獨魯諸國の聲援はありとするも此聲援は歐洲大陸にこそ大勢力あれ遠き東洋地方に齎

らしては格別の用を爲さゞるが故に英人は尚ほ未た侮り易からざるなり然るに幸にして目

下近く埃及の事あり英人は其兵力と金力とを盡して只管埃及を併呑せんとし其功將さに成

らんとして未だ成らず苦心煩悶の最中なり依て佛人は此機會に乗し先つ獨魯両國の許可賛

成を得て埃及政府即ち其後見たる英國政府に向ひ前年「アレキサンドリヤ」港砲撃の際の

損害要償の議を持出し否と云はゞ「カイロ」府駐在の交際官佛國總領事をして直ちに埃及

の國境を立去らしめんとせり隨分念の入りたる恐嚇と稱すべきなり佛人謂らく汝英人我れ

に支那を與へじとならば我れも亦汝に埃及を與へじ支那埃及取捨汝の擇ぶ所に任すべしと

斯る切迫の談判と爲りたる以上は英國政府も最早曖昧の手段を以て佛清事件並に埃及事件

を處分すべからず早晩必ず何とか決着の返答を爲さゞるを得ざるべし巴里の政府が此返答

を受取るの日は即ち福州の佛軍が其向ふ所を定むるの日にして目下「クルベー」提督が戈

を枕にして媽姐嶋畔の月に仮寐しつゝあるは盖し英國の晨〓(谿の左に唯の右)未た一聲

暁を告けざるが爲めならんのみ