「滿世界に信を失へり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「滿世界に信を失へり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

滿世界に信を失へり

國として信を内外に失はざるは大切のことなり尤も政略上に於ては仮に權道を用ゐて秘密

を尚ぶ等一時の機宜なきに非ざれとも之を外にしては公明正大、事實を有の儘に表白して

人の疑を受けざるやう立働くは立國上片時も忽諸にす可らざるの要道たるべし支那人の言

葉に民に信無くんば民立たず國に信無くんば國立たずとあり如何にも其通りにして信を守

るの必要は今復た喋々するに及はず支那人の此語は千古の銘言その價黄金よりも重しと云

ふべし

然るに爰に失信沙汰の限りと申す一條は支那國政府近來の振舞是にして先つ其人民が狡猾

無恆、人の信用に乗して己れの詐欺を濟すの談は措て論せず唯昨年來安南東京の葛藤より

近くは目下佛清の交戰に至るまで其間支那政府若くは其役人等が言ふこと爲すこと大抵は

信なくして支那人の手に懸る報道とあれば聞く人皆先つ嘘八百ならんとの心構をなし而し

て後に之を受取るの姿となり例の支那人の虚喝なり例の支那人の誇大なりとて凡そ支那人

の言行には一切例の一字を其頭に冠せしめて後ちに之を迎ふるに至る失信も〓〓しと云ふ

べし尤も其外交政略上に關しては秘密を尚び又目下交戰の際中ゆえに支那政府の行爲軍略

上より變幻端倪す可らざるの權道に出つるは已み難き次第にして我輩と雖ともその情實を

察せざるに非ず然れとも正權は信僞に異なり正道權道併せ用ゐるは獨り政略上の區域内に

のみ限るべきことにして今の列國政府皆な此權道に出てざるは無からんと雖とも信僞を混

合して自から詐欺に陥るの愚を學ぶ者は世界上唯一の支那帝國あるのみ例へば何軍門、關

を出てゝ何月何日越南の交界に佛兵を殲滅して華軍全勝兵威四方に閃くとか或は又福州の

役、何総督身を躍して勇進し敵の大將を打取り殺獲無産とか此等の妄説、支那人民中の風

聞ならば兎も角而かも堂々たる大臣公衙にして尚ほ之を四方に傳へ或は外國に告げて甚だ

得色を現はし一時は人の耳聞を聳かすことも大ならんと雖とも其頻繁なるに及んでは何人

も例の僞りなりとして復た之を顧みず極度に至りては從令ひ信實を以て人に告くるとも人

は之を詐欺なりとして受取り一度信を失へば百世其信を恢復すること難からん自から小信

を失して永く大信を全世界に失ふ支那人の自業自得亦氣の毒に堪えざるなり全体戰爭の小

敗北の如きは其軍機を妨けざるの限り有の儘に打明けて問ふ者あらば内外與に之に實事を

告げたりとて國の威光を汚すにも非ず况て戰爭外の事などは正直に公布して何の憚る所も

無かるべき筈なるに故さらに詐欺に修飾を加へて内外を瞞着せんと欲す其意の在る所實に

不可思議に堪えざるなり然れも支那政府僞りを言ふも尋常の不可思議して止まば尚ほ可な

りと雖とも信を内外に失ふの〓は遽には自家の損亡を却すに至らざるを得ざるべし第一〓

支那國民に取りても其政府の言ふ所何時も事實の眞僞を失ふときは隨て政府の命令を守ら

ざるの傾向も生し易きが故に後ちには政府自から信を言ふと雖とも臣民の耳に入らずして

官民の間に利害の感情も無く言はゞ政府を視ること路傍の人の如くなるは今日既に支那國

の現状にも顯はるゝ所なり又其上に恐るべきは政府の役人互に虚を傳へ知らずして人を欺

き又人に欺かれ十八省の政府は悉皆虚無不信の間に彷徨して偖北京中央當局者たる親王大

臣までも同一の虚無霧中に其政略の向ふ所を決したらんには如何樣なる間違に立至るべき

歟支那國政府の危險これ程に大なる者は有る可らす盖し軍機大臣と云ひ或は總理衙門大臣

と云ふ所の諸顯官が危急維谷の今日に切迫しながら内外の事情を知らざるは勿論、その諸

方より奏達する報道の信を失ふことさへも悟らずして僞を眞と爲し眞を僞と爲し之を根據

にして政略を決す、愛親覺羅氏の社稷を誤まらずして已むべきに非ざるは數の明白なる者

なり

支那政府の失信、内の危險は先つ右の如き者なりとして次に其外の〓〓損害に至りては猶

ほ其内の憂患よりも甚しか〓〓〓〓〓我輩が支那の徃先きを案して氣の毒に堪へざる〓〓

〓〓〓〓〓〓政府預め其敗績を察し到底佛國と爭ふ可〓〓〓〓〓〓〓〓上眞實に過ちて悔

を媾和を申入るゝとも〓〓〓〓〓〓〓〓して其懺悔改心に相違無きを洞見してこれが請願

を許すべきや如何ん是迄支那政府の言ふこと爲すことには常に信ある無く表向きは叩頭拜

状して和議を乞ふの有機を示せどもそれも眞實に和を乞ふ者なる歟又は暫く佛國を迎へて

一時の急を緩めんとの權謀なる歟或は滿廷の與論は何處までも頑然戰はんとの決心なるに

欽差使臣獨り私に媾和を欲するとするも浮かと支那政府の申出に乗るときは如何なる危険

あらんも知れず不安心の至りなりとして容易に其降參を聞入れざるに相違無からん和戰は

國の大事なり戰は無造作に開くべき者に非ずと雖とも既に戰と決したる上は又容易には和

を媾し難き者なるに漠然信無きの支那政府が遽に其漠然を改めて眞實に和を求むと白状す

ればとて佛國に於て此〓大事件を輕易に承諾せざることは明白なり何となれば和は素より

望まざるに非ずと雖とも支那政府の和は漠然として恃むに足らざればなり佛國既に容易に

承諾する能はずとすれば此上は支那政府に於ても是非なく中立各國の政府に依頼するより

他に策無かるへしと雖とも其際各國は果して周旋の勞を執るべきや是甚た疑はしきことな

り盖し其勞は無造作ならんなれとも支那政府が媾和の嘆願は眞實其通りなるか又は全く然

らざるか其内情の漠然として衝留むべき處なき限りは決して之を引受けざるべし一個人の

依頼に係る周旋にても其人の言と行と全く表裏にして其内情の漠然たる聞は容易に其〓に

應し難き者なるに况て一國政府の言ふ所、國際上の大事件浮かと其衝留めのなき依頼を引

受くる者は復た之ある可らざるなり左ありては折角に仲裁の勞を取らんとする各國公使あ

りとも皆な先つ其手を懷にして寧ろ傍觀の快を擇むならん今日に於ても既に英獨の公使等

は佛清事件に何たる介意をも存せざる真似して始めより取合はず又米公使の如きは暫時仲

裁者たるを試みしかなれとも今は早や他の公使同樣局外に超然と閑坐せるが如し畢竟斯る

擧動の原因は他に仔細もあるならんと雖とも支那政府毎度の失信自から之を招きたる所な

しとも云ひ難し支那國は平生小信を重ねて遂に貴重なる此大信を滿世界に失ひたり今より

後其徃先きを察すれば我輩は之に對して愍憐の一情あるのみ