「人の己れを知らざるを憂ふ」
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時事新報に掲載された「人の己れを知らざるを憂ふ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
左の一篇は英國倫敦七月十八日附を以て同府の通信員より寄送し來りたるものなり萬國博
覽會の出品を日章旗を翻へしたる軍艦にて運送すべしとの事は文化日進の我新日本國を世
界の人に披露する屈強の手段なりと云ふべし 時事新報記者
永井久一郎氏は内務省より手島精一氏は文部省より倫敦衛生萬國博覽會掛を命ぜられ両三
日以前に着英相成りたり小生はその出品目録等を一覽したるに出品の員數も格外に夥しく
其部分けも精しくこれを前年漁業博覽會の出品に比すれば實に雲泥の相異小生業在留日本
人の欣喜に堪へざる所なり唯遺憾に思ふは其出品の斯くまで延着して折角の博覽會も最早
閉塲の間ぎはとなりし事なり此儀に就ては過般已に報道し置きたる事もあれば今更此に贅
せずと雖ども其出品運送の事に就ては別に聊か遺憾とする所なきにあらざれば已に事濟に
なりたる後の祭、今更これを喋々するも萬々無uの事なれとも聊か後來の參考にもがなと
左に意見を述ぶること爾り
抑も國の体面を維持して其名を天下に燿かすに虚實の両道あり大國強國は既に其實權を有
する者なれば強ち其虚術に依らざるも可なり其實力を以て足れりとすれども小國弱國は然
らず自から其實權を有せず仮令ひ其實權を有するもこれを振ふの塲所なき者なれば其國名
を世間に擴め世人をして世界に某國あるを知らしむるは虚術に依らざるべからず固より單
に虚名を張るは道コ上に於て許さゞる所なれども其虚名を張るは實權を得るの手段虚よく
實を生じ瓢箪よく駒を生ず苟も外國に遊び其事情を見聞せし者ならんには必ず其然るべき
を知ることならん、扨て虚術を以て國の体面を張るの法種々樣々あれども今此博覽會出品
運送の一事に就て其術を施さんに我國の軍艦を以て此出品を運送することなり軍艦に博覽
會の出品を積載すべしと云へば人或は軍艦は護國戰爭に用ゆるものなりこれに其出品を積
載する抔とは以の外の事なりと云ふ者あらんか併しながら其國の出品を其國の軍艦にて運
送することは世間に其例乏しからず既に前年和蘭國「アムステルダム」博覽會に佛國より
の出品は悉くこれを其國の軍艦にて運送し閉塲後其殘品を持歸るにも亦其軍艦を使用せり
されば我國の軍艦にのみ限りて出品を積むべからずとの理はなかる可し啻に其理由あらざ
るのみならず世界萬國に對し决して愧づるに足らざることなり軍艦の實用は國を護る爲め
に外敵と戰ひ他國を攻むる爲め兵軍を運送するにありと雖ども此實用の外に又虚用の實あ
り即ち世界萬國に航海して我旭日旗を世人に知らしめ世人をして東洋に日本國あるを知ら
しめ日本國に軍艦あるを知らしむることこれなり其實用を以て我國に軍艦の備あるを知ら
しむるは國名を燿かすの最捷徑ならんと雖ども戰爭は人間稀有のこと且は餘り好むべき事
にもあらざれば戰爭の時を待ち國の名を揚けんとするは甚だ難事なりされば我日本の如き
は先づ何は兎もあれ虚術に依ョして實名を得ること甚だ大切なり實にのみ依ョして其名を
得んとせば到底其期なからん他國の商船に依ョしてこれを運輸すると我軍艦に載すると其
費用の多寡を計れば或は多分の差異あるべし軍艦を運轉する時は士官の給料旅費等より其
他百般の事に至るまで格段の費用を要することならんと雖ども凡そ世の中に金錢を散ぜず
してuを得る者なし名を得るも實を得るも必ず金錢の力に依らざるべからず軍艦を運轉す
れば金錢を費さゞるべからずと云をこれを運轉せざるの謂れなし最初より運轉せざると覺
悟を定めたる者なれば焉ぞ巨萬の金員を擲て鉄艦を製することをせん紙張子の軍艦にても
事足るべし商船に依ョして其出品を運送するも必ず若干の運賃を拂はざるべからず其運賃
等の諸入費諸手數料を差引勘定すれば我軍艦にてこれを運送すると差したる損uの差はな
かるべし啻に損uなきのみならず我軍艦を以て運送する時は先づ第一我日本に軍艦のある
ことを世人に知らしめ虚術に依て我國の實名を得ることならん、第二軍艦を運轉するが爲
め我士官をして航海の術に熟れしめ大に其實uを得ることならん、此他海軍の樂隊をして
其博覽會塲に我日本の樂を奏せしむる抔の方便もあるべし既に日耳曼佛蘭西の如きは現に
其樂隊を派出して塲中にその技を演す支那は彼れが古風の樂を奏して尚衆人の歡を博す我
日本人の樂隊をして其近世の海軍樂抔を奏せしめたらば我國日進の有樣を英國の俗人に知
らしめ外交上利uを得ること亦尠なからざるべし既に今年の博覽會は追々閉塲の期にも近
つき又其出品も既に當地へ着せし跡のことなれば今更詮方もなき次第なれども最初より此
邊に見込の付かざりしは余輩の最も遺憾とする所なれば後來參考の爲めにもがなと聊か此
に一言すること爾り