「黴毒の蔓延を防止すべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「黴毒の蔓延を防止すべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

黴毒の蔓延を防止すべし

黴毒の恐る可きは人皆之を知る盖し其病毒の惡烈なる獨り一身を毀損するのみならず傳染

蔓延の性を有して廣く世人に禍し又毒を子孫に傳ふるものなり此の如く甲傳へ乙感し漸次

公衆の間に蔓延し子々孫々相傳へて滅絶するの期なきときは身體愈薄弱となり施いて國力

の衰弱を來す程のものなれば其毒の恐る可きを恐れ其禍の防くべきを防ぎ之れが計畫を定

るは又經世の一要務と云ふも可なり左れば黴毒を驅逐して公衆の健全を得せしめんとする

には黴毒検査の法を嚴密にするを以て第一着歩とすべし

我邦に於ても娼妓黴毒検査の法は既に行はれて逐年これを改良し愈精密を加ふる有樣なれ

ば漸く其功を奏して禍源を涸らすに至るや疑ふ可らずと雖とも其之れが准備をなす費用を

要するや勿論にして愈精密を加ふるときは愈費用を増し時に或は充分の准備を缺くの憾な

きにあらさる可し然りと雖とも公衆衛生の爲めには些々の費用を敢て之れを惜むに足らず

苟も金を費やして禍を驅るの術あらば斷して其衞を施す可きなり

明治十六年中警視黴毒病院にて東京府下六遊廓(吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋)

の娼妓を検査したる景况は左の如くなりと

 検査度数      三一三   検査醫員   八五七

 受検娼妓総數一四二、九〇八   有毒者  二、〇八五

 右十二箇月間の合計にして有毒者は娼妓百人中一、四五八に當る又同年中新規營業願人

身体検査人員は五百十四人にして此内有毒者は三十三人なり即ち百人中六、四二に當る此

新規營業人の有毒は常に娼妓よりも多くして明治十一年より同十五年迄五箇年間の總計は

左の如くにして新娼は舊娼より多きこと實に十倍なりとす

      検査數     有毒者     百分比例

娼妓  六三五、六四一   八、二七四    一、二八五

新娼    三、九六四     四六〇   一一、六〇四

又明治十五、六年検黴比較並患者治療日數比較は左の如し 

年度  検査總員數    有毒入院患者  有毒者百分比例

十五年 一三七、六〇七   一、五三一    一人と一一

十六年 一四二、九〇八   二、〇八五    一人と四八

               内咽喉患者二百廿六人 

比較(増) 五、三〇一     五五四    〇人と三四八

   患者總員數  治療日一人平均  滞院患者一日平均百分比例

十五年 一、七三二  三十四日〇九八     九人二九五

十六年 二、二三四  二十九日〇八八     七人九六七

比較(増) 五〇二 (減)五日〇一〇  (減)一人三二八

 右に掲くる如く患者の總數は十五年度より十六年度に於て其超過すること五百〇二人な

り是は検査總員を増したるに因るものにして其有毒者の割合前年より多きこと、四八なり

是れ亦検査法を改良して精密を加へたるを以て有毒者を發見する隨て多きが故ならんされ

ば前年に於ては實に有毒者の少きにあらず尚ほ隠蔽されたるものあるを徴するに足る可し

且夫れ一日平均數を百分比例すれば十六年度に於ては治療の日數一人に付五日と〇一〇を

減し滞院患者も一人三二八を減ず是れ全く検査の精微に渉り毒勢未た熾ならざるに先ち日

早く入院治療せしむるを以て全治退院に至るの日も亦速なればなり其功驗頗る大なるを見

るに足れり

以上諸表に掲くる如く東京黴毒病院の實驗上に於ても既に其功驗の見る可きものあれば益

此法を改良して愈其備を全くするを以て要用なりとす然れとも前にも云へる如く此法を改

良するには醫員も増さゞる可らず設備も充分にせざる可らず隨て其費用も亦多を要するこ

とにして資財の出處如何との説もあらんなれとも幸にして爰に娼妓賦金なるものありて財

源に乏しからざるなり現に東京府下の如きは賦金の高毎年五萬餘圓に下らず即ち貸座敷、

娼妓、引手茶屋等より黴収する所にして官廳特に之を地方税目の外にしたるものなれば今

其趣意に從ひ之を全くの別途金と爲して娼妓の身体を保護し隨て世上一般の病害を驅除す

るの費に使用するは誠に適當にして差支なきことと信ず元來地方に於て道路、橋梁、衞生、

病院、警察、救育等の費用は公に税目に登りて公議するものなれば偶然娼妓の賦金あれば

とて之を流用するに及はず娼妓の賦金は之を娼妓に用るこそ穩當なれ在昔徳川政府の時代

に不淨金を道路橋梁等に用ゐたる例もあれば娼妓の賦金も之を一種の不淨金と視做して他

の公共の用に供するも妨なきが如くなれとも現に其浮淨金の由を生する娼妓の身体に付き

金を要する事あれば身より生するものを以て其身の爲にし又隨て世の爲にするの趣意を以

て先つ其賦金の全額を擧けて黴毒検査の費に供し検査法遺憾なき程にして尚殘額を見るこ

ともあらば乃ち之を他用に充るも可ならん若しも然らざるときは娼妓社會は未た自家の災

害を救はずして他の公用に加勢するものと云ふ可し加勢するものゝ難澁は勿論、加勢を受

るものも亦聊か不愉快の意味なきに非ざる可し

次に黴毒の蔓延を防くの要や病患隠蔽の風習を除くに在り盖し此病毒の恐る可きは皆人の

知る所なりと雖とも之を恥つるの念深くして從令ひ毒に感染するも勉めて之を隠蔽して早

く治療することに注意せず少しく恥を忍ひずして大に患を釀すに至る亦一般の人情なり前

にも掲ぐる如く新規營業の娼妓に有毒者の比例甚た多くして舊娼妓に十倍するものは實地

検査の日に臨む迄は先つ之を隠蔽して治療を求めざるに依るものならん固より此新娼は既

に已に私窩子の類にして黴毒豊饒の地より出たる者も多からんと雖とも尋常の家門に育せ

られたる婦女も相半する其數に於て有毒の比例の斯の如くなるは毒源必ずしも遊廓のみに

あらず世間一般其蔓延を卜知す可し醫師の言を聞くに黴毒の性質固より險惡なりと雖とも

時に及て治術を施せば治す可らざるの病に非ず唯其禍の大なるは治療を怠るに在りと云ふ

人文既に高尚に達したる我日本國の如きは人々皆私徳を重んして猥褻の行を愼むこと甚た

嚴重なるの風を成したるが故に下部の病と云へば男女を論せず之を口にすることをも羞ぢ

殊に婦人の如きは仮令ひ病患のためにても陰部を示すは恰も操行を破るの感を爲すものあ

り大なる謬見なれとも之を如何ともす可らず唯今日の肝要は醫師の方便を以て患者並に家

族の人を説諭し又一方には病を隠蔽するの大害たる所以を江湖に辨明して次第に其習慣を

成さしむるに在るのみ此邊の事は簡單なる醫術の巧拙にあらずして寧ろ醫略の方寸に存す

るものと云ふも可ならん