「東隣の大統領」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「東隣の大統領」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東隣の大統領

北米合衆國は共和政治の政府にして其柄を握る者は大統領なり大統領は全國人民の公撰に

由て推薦せられ在職四年を限る四年の任期滿れば更に公撰の法を以て後任の人を定め由て

以て萬機の政を一新す故に米國の大統領交代は全國の大事件にして人民個々利害の關する

所決して少小ならず各畢生の力を盡して勝敗を爭ふが故に其混雜騒動は世界中に復たとあ

るべからざる非常のものなり

來年三月は米國大統領新舊交代の期にして其新大統領たる人は本年十一月四日に全國人民

の投票を以て多數決定するものなるが故に目下全合衆國を通して人々皆政黨の爭に忙はし

く其有樣を形容すれば祭禮の如く開帳の如く戰爭の如く開業開道式の如く其騒動實に名状

すべからざるものあるなり當時米國の政黨中最も有力なるものを「レパブリカン」「デモク

ラツト」の二黨とし政黨競爭の紛擾も殆んと此二黨の専らにする所たり回顧すれば千八百

六十一年「リンコルン」氏大統領の職に就きし以來年を閲すること二十四大統領其人を代

ふること前後五人に及ぶと雖とも米國の政權は依然「レパブリカン」の一黨に歸して他に

移らずこれに敵對する「デモクラツト」黨の如きは其黨勢強からざるにあらず有為の人物

多からざるにあらずと雖とも毎四年の戰爭に形の如く敗北を取り連敗遂に今日に至るも勇

氣勃々として舊時に異ならず今年十一月の大統領撰擧に「レパブリカン」黨の候補は前國

務卿「ブレイン」氏「デモクラツト」黨の候補は現在紐育州知事「クリヴランド」氏にし

て両黨の勢互角を爲すのみならず時宜に由りては久方振りにて「デモクラツト」黨の勝利

に歸すべきやとの評判さへありて目下全國の人民が各其贔負する所に片袒を脱きて奔走周

旋する有樣は我々日本國民などの眼より見れば狂氣の沙汰とより外は思はれず人或は此有

樣を見て米國人民の政治の思想に富めるに感服し公益の爲めに私利を顧みず米國人の義氣

は日月と其光を爭ふべしとて只管これを賞嘆して止まざる者ありと雖とも米國人必ずしも

公益義勇の事にのみ奔走熱心するの人にあらず盖し大統領の交代は全國政略の變更に關す

る緊要事件なり或は一政黨の政略を以て航海會社銕道會社製造會社等に向つて多額の保護

金を與へ或は海陸軍等の用達を特に某々の會社に命して意外の利潤を得せしめ或は支那人

の來住を禁して内國勞役社會の賃錢を引上け或は織物の輸入関税を高くし内國の織屋をし

て外國廉價品の競爭を免かれしむる等千種萬端の情實あるが爲めに苟くも米國人民として

此世に生存しある限りは人間自愛の道理上に於て是非とも自家の便利とする人物を擧けて

大統領の職に就かしめざるべからず是れ則ち米國人民が政治上に世界無類の熱心を現はす

第一の原由なり或は多數の人民中政府の交迭の爲めに直接に自家の利害を感せざる者に至

るまで他の豪商大家等と均しく飽くまでも政治に熱心して狂奔するが如きは盖し或は我日

本人が祭禮に熱心し相撲の勝負に己れを忘れて喜怒笑罵するの類と相似たる所あらん日本

人米國人地を易へば皆然らんのみ

來る十一月四日の撰擧會には「レパブリカン」黨勝利を得て「ブレイン」氏大統領の職に

就かんか或は「デモクラツト」黨勝利を得て「クリヴランド」氏大統領の職に就かんか我

輩これを今日に前知すること能はざるなり若し「デモクラツト」黨にして今回久方振りに

中原の鹿を獲んか米國の中央政府は上大統領より下門監の小吏に至るまで悉皆交迭すると

同時に保護貿易は自由貿易と爲り内外の政策一變して從來の秩序に一大變革を惹起すのみ

ならず時宜に由りては憲法をも改正増減するの沙汰あるべし斯の如きは則ち獨り米國の一

大事件のみならず苟くも此國と交誼あるの國々は多少に皆其影響を蒙るべき一事變なるべ

し或は又二十餘年來の舊例に從ひ今回も亦現任政黨の勝利に歸し「レパブリカン」黨をし

て今一度政壇に凱歌を奏せしむることあらんか斯の如きも亦米國並にこれと交誼ある國々

の爲めに大事件たるの性質を失はざるべし何となれば今回「レパブリカン」黨の候補者た

る「ブレイン」氏は前年國務卿在職六箇月間計りの時に當て早く既に其端倪を示したる如

く外交政策に關しては非常の進取干渉主義を執るの人なり南北両亞米利加大陸は冝しく米

國人の管理に在るべし汝歐洲の列國人如何で汝をして我臥楊の傍に鼾睡せしむべきぞとの

説を持する人なり愛蘭人を庇保して英國人を窘めんとするの人なり支那人の移住を拒絶す

るの人なり此人にして若し果して大統領の職に就て其意見を政治の實際に施すことあらん

か歐洲列國並に南米諸國と米國との關係を一變すべきは勿論米國が東洋諸國就中日本支那

朝鮮に對するの政略も必ず亦一變して從前の如く緩慢温和ならず漸く進取干渉の實を示す

ことあらん北太平洋の米國軍艦の數大に増加し太平洋を横斷して亞細亞亞米利加両大陸の

間に海底電線を沈め太平洋郵船の航路を増し又船數を加ふる等は總て皆な「ブレイン」氏

在職中の事業に屬すべきかと豫想せらるゝなり兎に角に今回北米合衆國大統領の交代は獨

り合衆國内の出來事にあらず近くは我日本にも大關係ある事件なりと云はざるを得ず世の

經國の責に任するの諸士或は匇々對岸の火災視して他日の悔を招くこと勿れ