「外情を知らざるの弊害恐る可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「外情を知らざるの弊害恐る可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

外情を知らざるの弊害恐る可し

凡そ地球面に一國を成して獨立と稱するものは其國を鎖すにも又開くにも其國治まるにも

又乱るゝにも國民の分として知らざる可らざるものは外國の事情なり况や既に國を開て諸

外國と交際を通し政府親睦の消息、人民貿易の關係、知識の交換、民情の諮詢より冠婚葬

祭吉凶弔賀の事に至るまでも互に利害を共にして同情同憐み相助けんとするの時勢に於て

をや國民を擧けて外情に通するに非ざれば國交際は迚も難き事と知る可し又古諺に云く汝

の友を愛するも其敵たる可きを忘るゝ勿れと、左れば開國親睦の交際は誠に目出度きこと

なれとも今日の友邦明日の敵國たるを知る可らずして敵の情を知るの要用は朋友の心を知

るの要用に異ならず治にも乱にも等閑にす可らざるものは外國の事情時勢なり試に隣國の

支那を見よ我輩の誠意誠心を以て道徳上に考ふるときは今回佛蘭西との葛藤も其曲の本源

は佛に在るが如くに思はるれとも國交際は單に道徳一偏に依頼す可らず當初東京の事變正

に起るの際に在て支那政府の人々が外情に明にして佛人の意向の何れの邊に在るを知り、

其國力の何れの處にまで伸ぶ可きやを知り、同時に自國と佛國との權衡如何を知りたらば

亦自から交際の加減もありて今日の困難にも陥らざりしことならんに支那政府は曾て此に

心を用ゐず堯舜以來の舊乾坤に安んじて眼光中華の外に及はず以て挽回す可らざるの禍を

招きたるは之を其政府の不覺悟なりと云はざるを得ず尚此上にも憐む可きは唯政府のみな

らず國民一般に外情を知るを好まず却て之を知るを耻る程の有樣にして一旦佛蘭西と和を

失してより尚一層の困難を覺るものゝ如し福州にて佛艦の砲撃を被り佛艦去りて後に英船

の入港するものあれば敢て之に發砲するなど支那下流の兵士には佛英の舶艦を識別するの

眼もなきものなり尚これと同樣なる事情は呉淞廣東其外の港口に於て條約各國の舶艦出入

の時には特に其頭梔に自國の旗章を掲け呉れよと云ひ又諸藩各國人の居留地にても外國人

の家は毎戸漢文字にて何國人何某と表札に記し呉れよと支那政府の筋より紹會したりとの

ことなり盖し國民一般は今度佛蘭西と戦端を開きたりと聞き佛即ち西洋にして西洋即ち洋

鬼國なりと合轉して凡そ白〓(折の下に日)の外國人とあれば其何國たるを問はず無二無

三に屠戮せんとするの人情なるを流石に政府博識の部分にては佛英露米等聊か其間に區別

あるを知り佛を除くの外は敵國に非ず敵國人に非ざる者を殺すは不都合なるが如しとして

特に表札の紹會を爲し内地群民への諭告は外國人の居留地に住居する者は其戸外の表札に

英とあるは英國の人の印、米とあるは米國の人の印にして英米等は佛蘭西と別の國なり、

今回中華と戰端を開きたる敵國は佛蘭西なり、英米等は同じ西洋國とは申しながら佛蘭西

に對しては春秋戰國の世に晋齊の楚に對するが如く全く別々の國にして目下中華の敵國に

非ざるが故に表札の文字を目當として心得違なきやう致す可し云々と觸れ流したることな

らん扨々面倒至極なる手數にして然かも此手數を煩はしたりとて實に間違を防き止む可き

や甚た覺束なし既に過般來も廣東にては暴民等が西洋人の教會堂を毀ち其墓を發堀し又山

東省の曹州にては米國經典會の會員なる英人「パクナル」氏を殺害したりとの風説さへあ

る程の事なれば支那外交官の身と爲りては唯外交の本務に忙はしきのみならす内地の事情

に就き人に語る可らざるの心勞あるや推察せられて氣の毒なり畢竟其本を尋ぬれば政府を

始め人民全体が外國の事情に疎くして特に之を講することを忌みたるの罪なり

我日本國は支那と事情を殊にして外國と爭端を開かざるのみか益交際を厚くし條約改正治

外法權撤去の上は全國を打明けて外國人を容れ國中到る處これと此軒合壁して内外人の區

別なきこと今の米人が英國に住居し英國人が佛國人と雜居するが如き有樣に至る日もある

可しと我輩は屈指これを待つものなり扨此時に當て何事か先つ急用なる可きや外國の事情

を知るの一事は至急の急なるものならん先づ其國の名を知らざる可らず、其國の語を語り

其國の文字を讀まざる可らず、彼等の本國の地理を知らざる可らず、歴史を詳にせざる可

らず、其工業を知り、其物産を知り、其貧富を知り、其人情習慣を知る等、知る可き事柄

の多き實に枚擧に遑あらず農工商家にて是等の外情に通するの緊要なるは勿論尚下て些末

の事なれとも郵便配夫たらんものも横文の表書を讀み得るに非ざれば配達の用を爲すに足

らず、旅籠屋の主人休茶屋の女にても外國語を解するに非ざれば渡世す可らず、况や巡査

の如き其言語文字を知らずして其人の取締を爲さんとするが如き萬々望む可らざることな

り尚况や中央政府の官員より各地方の行政官、法官、警察官等に至ては外情を詳にするこ

と今の内情を知るよりも急須にして一層の注意を要することと爲る可し我輩曾て人に語り

て今より數年の後は我官途にて苟も洋語を解せず洋文を知らざる者は等外の小吏たるも難

きことならんと云ひしは盖し偶然の戯言に非ざるなり若しも然らずして漫に内外の交際を

繁くし又は時勢のために自然に交際の區域を増延して内地の事物人情は依然として今の有

樣に止まり内外の人民混同雜居しながらも我れは我れたり彼れは彼れたりとて相互に言語

文書を解せず相互に意見心情を通せざること支那人が其國居留の外國人に接するが如き次

第にては我日本國は外人の内地雜居を許し其期する利を得ずして期せざるの害を買ふもの

なる可し我輩は固より治外法權の禍惡を知り、此禍惡を除くと同時に内地雜居を許し其雜

居に由て利する所あるを知り、禍を轉して福と爲さんと欲する者なれとも日本國上下の

人々にして今日より雜居後の覺悟を爲して速に其要點に着手する程の用意なくしては實際

に臨て轉禍爲福ならで轉禍又爲禍の恐れなきに非ざるなり日本と支那と時勢も異なり事情

も異れとも支那國多事の中に其國民が外情に暗きの一條は其國難に一層の難を重ねたるも

のなれば我輩は唯この一事に就き不祥ながらも殷鑑遠からず隣國の支那に在りと言はんと

欲するものなり