「國と政府との區別」
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本文
國と政府との區別
左の一篇は英國倫敦七月廿五日附を以て同府の通信員より寄送し來りたるものなり兵は護
國の要具と云ふことに付日本國人中十分に其理を合點したる者は尚ほ甚た少なしと論する
所の如き最も時弊に適中したるものと思はる 時事新報記者
一國の政權強大に過ぎて全社會の事物悉く其權内に寵めらるゝ時は人民唯政府あるを知て
國あるを知らず政府は即是れ國、國は即是れ政府にして國民の思想に判然其區別を許るす
所あることなし國運文明に進み社會の事物漸く繁多錯雜なるに從て其事物漸く政權の區域
外に溢れ出で遂に政權は社會事物の一小部分となり敢て萬般の事物を包羅含蓄することな
し斯くなる時は人民の思想に國と政府との區別判然し國は即ち政府、政府は即ち國抔の混
雜あることなし今は日本の人と當英國の人との思想に於て其最も著しき差異ある所は國と
政府との思想判然なると然らざるとの間に在て存する者の如し我日本は全社會の事物未だ
單一にして其これを組織する所の元素も亦繁多ならず單一にして繁多ならざるが故に我政
權はこれを他國の政權に比して决して強大に過ぎたりとは云ふべからざるも尚現時我國社
會の他の事物に比すればこれを強大なりと云はざるべからず政權の強大なるは固より國の
爲めに願ふべき美事なればこれを惡しと云ふの理は萬々あるべからざれども如何にせん我
國の事物に比しては大なり我國の社會に比しては強なり、大なるが故に社會の事物を包羅
し、強なるが故に萬物これが爲めに制せらる、目下の勢啻に然るのみならず維新前に在て
は德川家並に諸侯の政權殊に強大を極め人民の思想中に國と云へる考なく偏に政府即ち其
時の幕府又藩あることを知れるのみ故に凡そ社會の事物一として政權の範圍内に包羅せら
れざる者なく農工商一切の職業に至るまで仮令ひ其目的は一人一個の生計を營む者にても
其名は悉く政府の名義を以て其頭に被むらしめざる者なし御百姓と云ひ御主人の爲めと云
ひ御家の爲めと云ひ太だしきは人間貴重の生命をも政府又御主人の爲めには之を犠牲に供
する者あり如此は啻に政府あるを知て國あるを知らざるのみならず御主人あるを知を我一
身のあるをも知らざる者と云ふべし斯の如く昔日よりの習慣と今日の現状とに依て我國人
の思想錯雜するが故に今日尚政府あるを知て國あるを知らざる者多し當英國の如きは然ら
ず社會の事物日に繁多にして又月に繁劇なり其事物繁多なれば政權強大なりと雖ども悉く
此事物を包羅するを得ず恰も社會の事物は政權の區域外に溢れ出づるの状あり斯くなる以
上は自から人の思想に政府と國との判然たる區別を生じ政權と國權とを其思想中に混雜す
ることなく此事は政權に屬することなり彼の物は國の全体に關する事なりとこれを分別す
ることを得るなり斯く彼我の人民其思想の廣狹を異にするよりして其思想に基固する所の
現象に於ても亦大に彼我の別あり既に英人の如きは國と政府とを判然分別するが故に内に
政黨抔色々其利害を異にする所の諸黨派ありて互に利を爭ひ勝敗を競ふと雖ども國外に對
する時は政黨とも云はず黨派とも云はず全國の力を擧けて外交の政略に當るが故に其威權
太だ強し政黨は政權の事なり外交は全國の事なり全國の事を處するに其際區々たる政黨の
思想を挾むべからず必ずや其全面を以てこれに對せざるべからず今左に其實例を援て以て
此理を證せん抑も一國の兵力は其時の政府に属すへき者なるか又は全國に屬すべき者なる
か固より國内の安寧を維持するには是非ともなくて叶はぬ者なれども其主眼の大目的とす
る所は外に對して國の体面を維持するに在りと云ふも敢て誤謬の見にはあらざるべし即ち
兵權は當時の政府の私有にはあらすして全國に屬するの公有物なりと云ふべし然るに我國
古來の習慣と現時の状体とよりして兵力を以て殊に政府に屬する者なりと誤認し昔日にて
云へは御用の陸軍御用の海軍とこれを思ひ誤まり自家一身の爲め我國獨立の爲めに此兵備
ありことを覺らざる者尠しとせず兵備を整ふるは即ち現時の政權を強大ならしめんが爲め
なり陸軍を盛にするは人民を壓するか爲めなり海軍を擴張するは今の政府を兵力壓制政府
となさんが爲めなり抔謂れもなき事共を喋々する人なきにあらずと雖ども此流の人は未た
國と政府との二者を判然思想内に區別することを得ずしてこれを錯雜混合する者なり一國
の兵備を嚴重に整へ以て萬國に對峙せざるべからずと云へることは人々皆同意なるべけれ
ども其思想に錯雜する所あるが故に護國の要具たる兵備を以て政府の要具なりと誤認し海
陸の兵權悉く現政府の手裏に歸する時は我國後來の爲め其災害測るべからず或は兵力壓制
の政府となる哉も亦知るべからずと掛念するに至れり英國の如き兵權と政權とは全く其區
域を異にし兵權は護國の要具にして政權は政黨の爭ふ所なれば内外の區別判然と分れ武人
は唯其執政黨の指揮に從て其職を竭くし昨日迄は自由黨政府の命を奉じて戰塲に臨みしも
今日は守成黨政府の命に從はざるべからず何人が政權を執り何黨が朝に立つも敢て軍人の
關する所にあらず軍人にして政黨の爲めに其行ふ所を左右するはこれを武人の耻辱と云ふ
へし國民も亦兵備は現在の政府に屬する者にあらず國に海陸軍の備あるは全國人民の爲め
にして當時在朝の政黨の私有に屬せざることを知るが故に兵備を視て所謂御用の海軍御用
の陸軍となす者なし故に在朝黨は毎に國費の多端なるを憂ひ可成軍費を節減せんことを欲
すれども却て下院に於ては啻に其節減を拒むのみならず年々歳々其軍用を增加して止むこ
とを知らず人民に於ても决してこれに不平を唱ふる者なしこれ盖し兵は護國の要具にして
在朝黨の私噐にあらざることを明知し又護國の爲めに兵備の必要なる所以を知るが故なり
我國人をして英人の如く國と政府との思想を判然分別せしめ兵權と政黨とをして全く其區
域を異にせしめ目下の現状をして兵力は護國の要具にして在朝黨の私噐にあらざることを
世人の曉會し得るが如き状体に改め文武の官職をして分離両立せしめたらば我國人と雖ど
も國に護國の兵備あるを願はざる者あらざれば海陸の軍備を擴張するに些細の軍用を增す
ことあるも誰れかこれに不平を唱ふる者あらんや