「開國の準備遲々すべからず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「開國の準備遲々すべからず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

開國の準備遲々すべからず

人間の交際に必要缺くべからざるものは言語なり何程に深切篤實なる人々にても互いの言

語不通にては我心事を明かし彼れが意中を知るの工風に窮するがため到底打解けて交りを

結ぶの望みなきなり新聞記者の如き筆を執て我意中を文字に現はすには隨分其術に慣熟し

居る者なりと雖とも時に世人の爲めに其文を誤讀せられ其意を誤解せられて不慮の迷惑を

蒙ること少なからず又莫逆の朋友にて兼て互ひの意中を知合ひ坐作言容の細事に至るまで

互ひに知悉せざることなき間柄にても不圖した話の間違ひにて「福祿壽」を「百六十」と

聞誤り「讃岐の金毘羅」を「彼の子の巾着」と聞誤るなどの事よりして互ひに隔意絶交す

る等意外の結果を招くことなきにあらず同文同心の郷人朋友間に於てすら既に斯の如し况

んや互ひに相異類視する言語不通の外國人同士にして一朝忽ち雜居せんとすることあるに

於てをや迚も尋常親密の交際は望むべからざるものと覺悟せざるを得ず

今日我日本の外國交際は未た前日鎖港時代の臭味を脱却すること能はず外國人は治外法權

を楯にし二府五港の居留地猫額掌大の小天地内に籠城して斷然其門を開くの勇なく日本人

は時に文明の長大進歩に瞠若して竊かに恐悸の念を抱き徒らに桃源洞裡の舊夢に戀々たる

の實跡なきにあらずこれが爲めに開國既に三十餘年たるにも拘はらず外國世界の時勢は河

流一般我れを待たずして逝くをも顧みず全國上下一般の氣風は尚ほ未た日本國外の事に疎

くして舊時の日本人と相距ること甚た遠からず外國人と雜居雜婚し世界の農商工業〓叢に

〓〓馳聘して他と雌雄を爭はんと覺悟するが如きは今日未た夢想にだも思出さゞるかと疑

ふべき有樣あるは實に此國の爲めに痛嘆長大息すべき事なりと云はざるを得ず斯の如く目

下内外人の交際決して近密ならず何時か應さに此隣合壁の人と爲りて徃來慶弔すべきづと

も未だ思寄らざるが如き實勢なりとは雖とも氣の毒にも人爲の故障は天然の時勢に打勝つ

こと能はず今にもあれ條約改正の議成り二府五港籠居の外國人は商たり工たり農たり資本

家たり宣教師たり男女老若たるを問はず漸く來て内地に雜居し徃來し近密の交りを爲すの

自由を得ると同時に内國各地の銕道工事成り朝に東京を發して夕に大坂に達するまでに交

通の便利増加するに至れば仮令日本國人上下一般尚ほ未だ外國人に接するの準備整頓せず

とて暫時猶豫を請はんとするも世界の時勢はこれを許さず準備の整頓せざるはこれを怠り

たる者の罪なりと言放たれ結局其實を辭するの工風なかるべし此時に至りて溯りて今日の

非を悟り仮令千萬侮恨するとも決して其詮なかるべきなり

故に今の時に當り全國の爲めに又一身の爲めに第一の急要事は外國人に接するの準備を整

るに在り而して又其第一着手は彼我の情實を交通する互ひの言語を解するに在り文明國普

通の例なれば國に入て先づ其國語を學ぶ筈にて歐米人の日本に來る者も先づ我日本語を學

びて我々と交際の便利を増さんことは我輩の希望して止まざる所なりと雖とも顧みて世界

の大勢を通觀すれば此事言ふべくして決して行はるべからず今の日本人たる者は己れを棄

てゝ彼れに從ひ唯後れざらんことを勉むるの外に工風なきなり然るに歐米文明國の言語一

種ならず英佛独魯以下十數箇國の人各其國語を異にするを以てこれに〓(疑の左に欠・か

ん)接せんとする日本國人は此十數種の國語を知るの必要あるべきやと云ふに其實は必ず

しも然らず唯此中に就きて其用最も廣き一國語を擇びこれを第二の日本普通言語と爲し置

けば夫れにて大抵の用は辨ずべく其以上の事は學者専門家等高等の教育を受けたる人々の

代を其任に當る者多かるべければ必ずしも日本全國人に向て數種の外國語を學ばんことを

望むの要なかるべし今文明國の言語中彩て以て我日本第二の普通言語と爲すべきものは何

國語なるやと云ふに英語なること論を俟たざるべし東洋に普通の言語は英語なり日本に流

行の外國語は英語なり東隣米國の言語は英語なり我日本の地位に在て商賣上政治上又社會

上の事に於て知らざるべからざるものは英語なりとのことは敢て我輩の私言にあらず疾く

より日本全國人の公論たり依て今より一層の力を盡し日本全國上下一般をして早く英語を

知ら市むるの方法如何と云ふに我輩の兼て議する如く全國三萬の小學校に於て日本語を教

授すると同時に英語をも教授し苟くも小學八年の課程を了りたる者は牧童村娘と雖とも英

語を話し得ざる者なきを期するに在り日本開國の準備多しと雖とも其第一着手は盖し此事

の外に求むべきものなかるべし