「貧富論」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「貧富論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

人を敎るは蠶卵紙を製するに似たり政を談ずるは胃病に罹るが故ならん

敎育の漸く洽ねくして後進の學者輩が漸く困難を覺るは、獨り西洋諸國のみならず、我日本にても開國三十年、

頻りに模範を西洋に取て社會を調理し、就中人民敎育の事は維新以來特に朝野の注意を惹き、其勞空しからずし

て後進の學者駸々輩出、同時に著書新聞紙を以て新説を説き出すものも少なからず、人心の品位は次第に高尚に

進むと雖ども、一方に殖産經濟の道は甚だ遲々として、間接にも直接にも學者の就て以て身を立つ可き事業を見

ず。殊に其學び得たる所は西洋學にして、日本社會は未だ西洋ならず、建築學者あるも建築を依賴する者なく、

化學士あるも日本の諸工場に適せず、土木學も器械學も又或は政治法律の學も、之を用るの地位甚だ少なくして、

學者は恰も玉を懐にして茫然たるものゝ如し。初の程は此輩が所得の學を人に敎れば卽ち學校敎師の身分にて、

亦自から生計の道たりしことなれども、己れの學びたるものを人に敎へ、其敎へられたる者が又次ぎの人に敎ふ

れば、次第次第に敎師を生ずるのみにして際限ある可らず。本來學問は唯人に敎る爲のみに非ず、其學問上の知

見を人事の實際に活用して實益を擧るこそ目的なるに、今左はなくしで敎授の一方に學者の力を費し、敎へ又敎

へて遂に社會に實利の生ずるを見ざるは、之を讐へば蠶を養ふて蠶卵を取り、又之を孵化して又卵を取り、遂に

生絲を見ざるものに異ならず。此法果して養蠶の目的に非ざれば、學者を製造して學校敎授の外に仕事なきの有

樣も亦敎育の目的に非ざるや明なり。左れども世間は廣きものにて、維新以來十餘年の間は、學者も先づ敎員等

の職業以て世を渡りたることなりしが、近來に至ては敎育の蠶卵紙漸く過剰なるを覺へて、復た舊時の價を命ず

るものなき其最中に、一方の敎場に於ては孜々として其製造に怠らず、今後の時價想ひ見る可きなり。

依て思ふに、近年世上に政談の‘ 喧しきも前條の原因より來るものと認めて不可なきが如し。元來政治家なる者

は唯已れの見込を社會の人事に施し、己れの意の如くなるを見て滿足するのみにして、自身肉體上の苦樂に無頓

着のみならず、政治外の事に付ては榮辱をも憚らず、時としては長者富貴を典しても一時一世の功名を取らんと

するもの多し。古人の言に鶏口たるも牛後たらずとは、正に其心事を寫し出すものにして、之を純然たる政治家

の本色とす。固より行事の細目に付ては、或は世の弊事を除くと云ひ、或は民の疾苦を救ふと稱し、樣々に道理

もあり主義もありて、亦時としては幸にして政治家の力に由りて所謂國益を成すこともなきに非ずと雖ども、一

心内部の目的は唯其社會に無上の權勢を占めて自から慰るに過ぎず。其趣は大力士が土俵に上りて力を逞うし天

下無雙とて自得するものに異ならざるなり。之を眞成の政治家として評するときは、世界各國其人甚だ少なくし

て、同時一國中に指を屈する程の數もなきことならん。其以下は或は政書を讀み、政治を談じ、或は政治家に交

り、政談を聞き、其言ふ所、行ふ所は、一見政治家に似て、之を用れば亦以て政治上の用を爲すと雖ども、唯僅

に他の驥尾に附て力を致さんとする者のみ。尚其以下に至ては事の利害得失は必ずしも喜憂する所に非ず、一身

の功名榮譽も深くもに關せず、唯富貴の地位に居て肉體の安樂を致し、几俗世界中聊か人の指點する所と爲れば

他に求る所あることなし。之を政治社會の多數とす。卽ち政治を以て營業の一種と爲す者にして、文明開化漸く

進歩すれば、政治も亦他の工商の事業と列を成して輕重の別なきが故に、政治の事たりとて特に人氣の熱を高く

するに非ず、之を營業として心身の勞逸と所得の厚薄とを照し合せ、得る所の報酬果して他の割合よりも多けれ

ば、其多き丈けに熱するのみ。西洋各國中殊に北米合衆國などには此風俗の見る可きもの多し。左れば我日本國

に於ても、近年政治の談論漸く喧しくして熱心する者甚だ多く殆ど無數の如くに見ゆれども、其之を談じ之に熱

する人々は如何なる種族なる可きや。我國とて世界各國に殊にして特に政治家の多かる可きにも非ざれば、彼の

肉體の苦樂を心に關せず、富貴を犠牲にして功名を取らんとするが如き、純然たる政治家は甚だ稀にして、其多

數は則ち政治を以て富貴の泉源と視做し、富貴を目的と爲し政治を方便に用ゐ、富貴を得んが爲に政治を談ずる

者ならんのみ。人心漸く洒落の境界に進みたるものにして、亦以て開化の一端として見る可し。如何となれば政

談喧しと雖ども、富貴の地位を得れば則ち止む、甚だ賴母しからざるか如くなれども、之を彼の固陋執念深き者

が利害に拘はらずして舊政敵を怨恨するの弊に比すれば、世安の得失に關して同日の論に非ざればなり。窮窟に

論じたらば節義を輕んずるなどの攻擊もあらんなれども、我輩は之を人心の洒落と評して深く咎るを欲せざる者

なり。

世の政談家の目的は富貴を求るに在るもの多數なりとするときは、其これを得ること愈難きに從て政談は愈劇

しがらざるを得ず。殊に富貴を求るの緩急厚薄は、正に其人の品位に相應すること、欺く可らざるの規則なるに、

近年は政治法律の學問も大に進歩し、又同時に他の物理學科を學び得たる者も、學業成りて事業なきに苦しみ、

血氣の推進に任せて政談社會に入るもの少なからず。演説に勸められ、著書新聞紙に導か札、今日の有様を朧る

に、政談社會は一切の敎育と共にますます盛なるを致して、其談論は正しく談者の貧富に従て劇と緩との別を具

し、其貧愈切迫すれば其談愈劇烈なる可し。政談の言に天下國家を憂て首を疾ましむと云ふは、其疾病朧に在る

が如くに聞ゆれども、我輩の察病を以てすれば、病源腦に在らず、貧は胃の栄養を訣て胃病の交感、朧に波及し

たるものなりと診斷せざるを得ず。故に此憂世病を治せんとして、直に局處の朧を攻め、其受動を誘導せんが具

に道德論を敎へ、其過敏を鎭靜せんが爲に政書を遠ざけ政談を忘れしめんとするが如きは、直接に耳目の聞見に

導かれて施療の要點を誤るものにして庸醫の事なり。苟も病源の位する處を胃と診断して、然かも胃中の貧訣な

るを知らば、先づ以て滋養療法を試む可きなり。蓋し天下眞に憂世の脳病に罹りて首を疾ましめ、胃の飢飽に闘

せず肉體の苦樂を忘るゝ者は、少數中にも稀なるが故に、胃病療法の一策、以て政談の全社會を緩和して、交感

の腦病は忽地に洗ふが如くなる可きなり。                        〔十月二十八日〕