「英米遊歴者親睦會」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「英米遊歴者親睦會」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

英米遊歴者親睦會

德川政府二百數十年の間に日本人が海外に漂流して稀に歸國し其風俗人情の一斑を國人に

語りたるものはなきに非ざれとも特に外國の渡航を企てたるものは今を去ること廿五年萬

延元年(千八百六十年)の春舊幕府の小軍艦咸臨丸を艤し北米の「カリホルニヤ」州桑港

に航して太平海を徃來したるを始とし(同時に幕府の使節は米の軍艦「ポーハツタン」號

に載せられて米國の華盛頓に赴きたれとも日本人が日本の船に乘り日本の航海士に依賴し

て外航したるは咸臨丸にして我航海歴史中に著しきものなり)之より恰も外航の道を開て

學生に商人に論なく米に航する者あり歐に渡る者あり殊に王政維新の一擧は我國民に外人

交際の禁を解きたるものにして德川の時代に外國人と私に文通するを禁じ又外國人を私宅

に招くを許さゞりしが如き窮窟なる慣行は全く除去して自由自在の天地と爲り歐米に渡航

するもの俄に增加して十七年の今日に至るまで年に增すあるも?ずるを聞かず盛なりと云

ふ可し殊に我日本國の文明は社會の上流より開けたるものにして隣國支那の比に非ず故に

此外航の道に由て海外に雄飛したる者を見るに官員が公用を以てするに非ざれば多くは學

者有志者にして外に在ること幾年其歸朝の時に携帯するものは學術工藝を第一として尚こ

の外に最も大切なるは彼の國在留中其制度風俗人情習慣を見聞して之を各自の腦裏に寫し

其腦鏡を携へ歸りて全國人の眼を照らすの効力にして其力の強大なるは實に人の意想外に

出るものゝ如し例へば維新以來我海陸軍の制を改め我法律を編製し汽船の航海を始め郵便

の法を設け鐵道を敷き電線を通ずる等文明の法を採り文明の利噐を利用すること枚擧に遑

あらず然り而して其法仮令ひ便にして其噐果して利なるも人民一般の氣風之を採用するこ

とを好まざるときは之を強ふるの道ある可らず例へば前年支那にて英國人等が商用の便の

ために呉淞と上海との間に鐵道を敷設したるに支那政府は朝野の人心に戻るとて官金を投

し既成の道を買取りて之を毀ちたることあり人心の勢力は風雨水火の如く其盛なるに當て

は人力を以て制す可らざるものなり然るに我日本に於ては此便法利噐を用るに當り曾て故

障なきのみか國民悦て其法に服して其噐を利用し尚其足らざるを訴へて益進歩するものゝ

如きは何ぞや社會上流の士人が國民の先導者と爲りて其固陋を解き固風陋雨の勢を挫いて

其方向を圓轉せしめたるものより外ならず即ち外航の諸士が海外諸國の文明を其腦鏡に寫

して之を下流の衆庶に示し文明の親しむ可く又近づく可きを知らしめたるの功德と云はざ

るを得ず我輩は此諸士を評して我日本帝國文明の木鐸と稱せんと欲するものなり

之を聞く我士人の曾て英米に遊歴し歸朝して目下東京に在る人々が益其親睦を厚うせんが

爲にとて今二十日を卜し府下江東の中村樓に會合して盛宴を張るの企ありと云ふ我輩は此

報道を得て欣喜に堪へず盖し諸士は今日現に社會の表面に立て事を爲し事業の以て世を益

するのみならず其人の一言一行も冥々の間に世人の標準と爲り恰も文明の推進噐たるもの

なれとも凡そ事物の勢力は合して立ち、離れて倒るゝの諺に違はず如何なる有力の智識に

ても孤立しては存外に其働きの量を?するものなるが故に諸士は大に此に見る所ありを先

つこの擧に及びたることならん方今我國運、文明は則ち文明なりと云ふと雖とも前途爲す

可きの事甚た少なからず文學技藝の事農工商殖産の事先つ其實際の事物を改良して舊套を

?脱し一より萬に至るまで悉皆西洋の文明を採りて遺す所なく同時に人心を誘導して次第

に運動を促かし風俗習慣衣食住の細微に至るまでも全く一變して亞細亞洲の東邊に西洋國

を出現せしめんとする其責至大其任至重にして而して此重大なる責任に當る者を求るに現

今この諸士の流を外にして他に其人あるを見ず然は則ち諸士が漸く其力を合一するの端を

開きたるは今の時に當て偶然の擧に非ず我文明の前途滿目の望に乏しからざるものと云ふ

可し殊に其會員の人物如何を聞くに固より故老先生に乏しからずと雖とも平均すれば壯年

の後進甚た多くして尚年々歳々歐米の遊?より歸來して本會に加入する者もあらんなれば

其人の壯なるは即ち文明の壯なるを表し出したるものにして其強壯に和するに時に故老の

深沈を以てす我文明の生力正に充滿し其進歩駸々として然かも其?武の堅固なるものと云

ふ可し近來府下に集會の種類少なからず或は某舊藩士の會するあり同縣人の集るあり或は

書畫の展覽に古物の鑒定に或は圍碁將棋の戲に茶の湯の閑話に上流の士君子相見るの機を

得て時に或は利する所もあり又樂しむものも少なからざる可しと雖とも其目的たるや唯社

會一局部の事に止まるのみにして尚未だ洪大なるものと云ふ可らず獨り今回の英米遊?者

親睦會の如きは我文明木鐸の會合にして其人々の期する所决して局部に偏せず我輩も亦後

來我國事を擧けて此流の人に任して遺憾なしとする程のことなれば此會合を尋常一樣視せ

ずして特に之が爲に一編を草するものなり