「暴動の害を除くには基本を務むべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「暴動の害を除くには基本を務むべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

暴動の害を除くには基本を務むべし

埼玉縣下秩父郡の暴徒は去月卅一日を以て其運動を始め一時脅從の徒を併せて其總勢數千

人數手に分れて諸處の邑村を劫掠し家を燒き財を奪ひ良民の迷惑一方ならず然るに暴徒の

勢甚た猖獗にして地方の行政警察吏の手を以ては中々これを鎭壓すること能はず遂に憲兵

鎭台兵を繰出して專ら追討の事に力を盡し二週間の日子を費して纔かに舊時の天地に復す

ることを得たるなり此暴徒のために蒙りたる公私一般の損害は果して何程の高に達したる

や未た聞くを得ずと雖ども其本塲の埼玉縣は勿論隣縣の群馬、神奈川、山梨、長野等何れ

も皆多少の損害を蒙らざるはなし中に就き長野縣の如きは南境佐久郡を蹂躪せられ財を費

し人を徴したる其損害は或は多く埼玉に讓らざるものありしならん兎に角に今回の暴動は

日本國のために隨分巨大なる損害を蒙したるものと信するなり

今回暴動の原因は近年諸業不景氣のため農工商民概して皆衣食の途に窮し坐して餓死を俟

たんか或は進て盗を爲さんか兩者其一を撰ぶの必要に迫りたるの際に民間に過激政論を唱

ふる者ありて無謀の企を爲し戸長官撰の制に改まりて從前郷黨の名望家を以て自から任し

たる者或は新戸長の撰に漏れて不平に堪えざるあり、或は賭博犯處分規則の制定以來其取

締懲罰の頗る嚴重なるがため從前博徒と稱せられて邑村に横行したる者共は坐して復た其

衣食を得ること能はず依て此等社會の溢れ者共が民間愁苦の其極に達したるを時とし無辜

無知の窮民を煽動して遂に此暴動を惹起し良民をして堪ゆべからざるの災害に罹らしめた

るなりと云へり而して世間又説を爲す者ありて民間の困窮何程に切迫なるも若しこれを煽

動する者さへなくば决して自から暴動を爲すに至らじとて只管其罪を煽動者に歸すること

に汲々たり如何にも此説の如く世に煽動者なくば自然暴動の起る憂もあるまじけれども去

りとて煽動者の跡を世に絶たんとするは盖し願ふべくして行はるべからざる難問題ならん

何れの處にか過激論者なからん何れの處にか失業不平黨なからん何れの處にか博徒なから

ん果して此等の人の煽動を以て平地に波を起すこと自在なりとせば日本國中到る處として

暴動ならざるはなからん如何でこれに應するの工風あるべけんや然れども我輩は思へらく

燈椀に油あればこそこれに燈心を置きて火を點することを得るなれ初めより油なき燈椀な

らんにはこれに炬火を指附くるも决して火の移る憂なし若し人民にして困窮せず其恒心を

失はず初めより乱を思ふの心露ばかりもなからんには仮令過激論者あり博徒ありて之を煽

動せんとするも油なき燈椀に火を移さんと試むるに齊しく何の結果もなかるべし果して然

らば暴動を惡み其罪を煽動者に歸し唯煽動者の消滅をのみ祈りて他に其慮を及ぼすこと能

はざる者は我輩これを知恵ある人と云ふこと能はざるなり

窮民暴動のために良民の迷惑すること實に一方ならず獨り良民のみならず暴徒其人と雖ど

も詰る所被害者の仲間を免かるゝこと能はず暴動は社會の大毒物にして一小益をも爲さゞ

るものなるが故に社會安寧の責に任する政府に於ては暴動を未然に防くのことに一意其力

を盡すの義務あるべきは甚だ以て明瞭なり然れども我輩は義務の在る處を爭ひて政府に告

ることを爲さず退きて政府國庫の出入損益上に就てのみ考を下すも暴動は甚た忌はしきも

のたることを見出すなり一の地方に暴徒の蜂起するや其地方廊の臨時費用の大なるは勿論

中央政府よりも兵隊を派遣し官吏を出張せしめ鎭撫の後夫々處分を了るまでの費用は中々

の巨額に上ることならん此費用のみにして止まらば尚ほ或は忍ぶべしと雖ども他に今一つ

の大災厄あり則ち暴徒のために蹂躪せられたる當局の良民は其家を燒かれ其財を掠められ

或は其生命をも併せて奪ひ去られたる者多きがためにこれをして尋常の塲合の如く諸般納

税の義務を盡さしむることの甚た困難なるを見出すことあらん果して然らば政府は臨時の

支出の費用を損するのみならず成規収入の欠損を生し出入合して隨分巨大の損失を受るこ

とならん故に歳出入の計算上より論するも暴徒の蜂起せざる樣手當を盡すは政府のために

謀て頗る策の得たるものと云はざるを得ず

暴動の忌むべきこと斯の如く而してこれを喚起する原因の大なるものは全く民間の不景氣

なりと定まる以上は早く民間の不景氣を救〓して此最も忌避すべき暴動を未然に防くは今

の日本の時勢に處する第一の急要務なるべし世人或は今の時勢の甚た困難なるを見て目下

鎭臺營所の配置方尚ほ甚た不足なりなどゝの感を抱く者なきにあらず此等の徒は唯既發の

害毒を鎭壓するの必要を思ふのみにして未たこれを未然に防くの眞成法たることを辨知し

得ざる者なり若し其本を務めずして徒らに其末を事とすることあらば獨り其害毒を撲滅し

得ざるのみならず却て其目的に反對するの結果を生ずるなきを必すべからず深く愼まざる

べからざるなり