「二千五百萬の金惜むべし」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「二千五百萬の金惜むべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

二千五百萬の金惜むべし

銕道の効能の至大至廣なる測り知るべからず試みに其及ぶ所達する所を窮めてこれを詳細

に説明せんとするも到底筆舌の能く及ぶ所にあらざるなり銕道は人を之輸送し物を輸送し

知識を輸送し德義を輸送し風俗を輸送し個々分立の各小天地を一區域内に集めて再び畛域

を分つことを許さず人間社會を大成して高尚完全の頂巓に達せしめんとするには世間恐ら

くば鉄道の右に出る者なからん故に我輩は日本國の文明ならざるを見ては鉄道を思ひ富ま

ざるを見ては銕道を思ひ農工商事の微々振はざるを見ては鉄道を思ひ畢生の願望唯一日も

早く日本國内に縱横無數の鉄道線の現出せんことを欲して止む能はざるなり鉄道を欲する

は鉄道を欲するが爲めにあらず日本社會の文明ならんことを欲するが爲めなり日本國民の

富まんことを欲するが爲めなり農工商業の繁榮して永く日本國民たるの幸福を享けんこと

を欲するが爲めなり

近日道路の傳ふる所に據れば我政府は二千五百萬圓の資本を以て興業銀行とか唱ふる一大

銀行を設け大に國内殖産の道を開くの企ありと或は此企の單に一二官吏が頭腦中の圖書た

るに止まるのみか或は既に廣く此圖書を披露して熟議漸く調ひ實際の事に着手するの運び

にまで至りたるが我輩は一切これを聞くことを得ざるなり風説の眞僞固より知るべからず

况んや其銀行の組織營業の科目方法等の細に渉るものをや總てこれを知るに由なしと雖と

も然れとも此風説たる事体頗る重大にして全國理財の變動に關すべきものたるが故に深く

問ふに及ばずして先づ斯る銀行を興すの是か非かを討求するも决して早計に失せざるべし

と信ずるなり

興業銀行は農工商業を振作するが爲めのものなりと云ふからには此等諸業の最も緊要なる

ものに向て低利貸付金を爲し資本供給の任に當らんとするものならん深く思慮せずして單

に其表面上より見るときは至極結搆なるものゝ如く思はるれともよく其實際上に就て講究

し如何に運動し如何に其力を用ふべきやを取糺すときは忽ちにして諸業振作の大目的を達

するには甚だ不充分なるものたることを悟るべし今の日本には資本全く空盡して諸業に供

給すべきものなしと云ふ程にはあらず彼の中山道鉄道公債の募に應ずる者の夥しきを見て

も遊金の多きを知るに足らん斯く遊金の多きにも拘はらず民間の金融極めて難澁なるは他

なし貸す者と借る者の間に大切なる信用の消滅したればなり諸業繁榮の際には事業者が其

負債を返濟するに約を違ふるの恐なかりしと雖とも不景氣の今日に當りては一事一業皆損

失の媒たらざるはなく遂には負債者も債主に對して其義務を全くすること能はざること世

間普通の例となり資本家の驚愕一方ならず金を人に貸し子母を併せてこれを失はんより寧

ろこれを庫中に埋藏し利子を失ふのみの損毛に止まらんにはとて一切の資本を引上げて庫

中に置き日夜自から監守して世間に出るを許さゞるなり此時に當り興業銀行てふもの出來

り其資本を政府に取り廣くこれを民間に貸出して諸業を賑はさんとするか其利子を低くし

其返濟の約束を嚴にせず商賣主義を離れて慈善主義の金貸業を營まんとならば兎も角も尋

常一樣に損得を計算する銀行業ならんには世間普通の資本家の例に傚ひ其資本を擧けて新

築の庫中に藏め置き役員は唯日夜これを監守するの外に一事務なきを發明することならん

或は又斯くては折角の銀行も有名無實なりとて貸付規則は極めて寛なるを貴び利子の割合

は極めて低きを貴び事業活溌平地に風波を捲くの功を収めんとすることあらんか日ならず

して全行の資本を雲煙に付すべきは勿論此有損事業を實施するが爲めに第一尋常の資本家

は興業銀行の低利貸金に壓倒されて自家資本の流通すべき塲所を失ひ第二國内の事業家に

して何かの事情より興業銀行に就き低利資本恩借の沙汰に漏れたる者は他の同業者の恩賜

優渥の高運に當りたる人と共に競爭して業を營むこと能はず資本家は産を失ひ事業家は職

を失ふの惡結果を生することならんか斯る細事情に關して我輩爰に又詳説するを要せず退

て明治の初年以來政府の商業又は貸付金等の事跡に付て吟味する所あれば思半に過くるこ

とあらん果して然らば興業銀行てふものは業を興すの功なくして却て業を妨るの働を爲さ

んかと思はるゝなり

鐡道は然らず其農工商業を振作するの効力に於ては世間これと其廣大を比すべきものなし

と雖とも鐡道は其恩惠を一部分の人に私すること能はず或る事業に限りて贔屓すること能

はず同業中此者に與へて彼の者に與へざること能はず至公至平の判斷力を以て滿天下一切

平等に其恩恵を分與し農たり工たり商たるを問はず一人も此恩惠に漏るゝこと能はざらし

むるなり雨露日光其力を施すも亦皆斯の如きのみ北海道無人の沃野に移住民の多からんこ

とを欲せんか唯須らく鉄道の聯絡を急くべし銕道聯絡せば招かざるも亦人民往かん、猪苗

代湖畔に〓〓の多きを悲まんか唯須らく一線の鉄道を通すべし鉄道通せば湖畔山麓人の勸

誘を待たずして忽ち美田の現するを見ん、越後の米價平を得ざるを憂へんか唯須らく鉄道

を布設して徃來運輸の便を開くべし鉄道の便一たび開けば米價平を得ざらんと欲するも得

べからざるなり、區々たる興業銀行仮令二千五百萬圓の資本あるも其力の及ぶ所甚た狹く

して又甚た偏し易し十分の伎兩と注意とを以て首尾よく其事を果したりとするも其益必ず

其害を償ふに足らざるものあらんこれを鉄道の百利ありて一害なく一視同仁百般の人事に

大功益あるものに比すれば固より同日の論にあらざるなり二千五百萬の金は以て百五十里

乃至二百里の鉄道を布設すべし鉄道は多々益長きを厭はず二百里の鉄道は二百里の文明福

利なり今若し二千五百萬の金を才覺し得る者あらばこれを銀行事業に用ひずして必ずこれ

を銕道資金中に差加ふべきは國を憂る者の心得置くべき事なるべし