「海軍擴張」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「海軍擴張」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

海軍擴張

左の一篇は「ロンドン」府十月十七日發にて在英國特別通信員より寄送し來りたるものな

                                 時事新報記者

海軍擴張                               豊浦 生

英國の海軍は昔より今に至るまで天下是に勝るものなく太西太平の兩洋は勿論北は北洋南

は南洋の隅々に至るまで行く所として英艦の十字旗を視ざるはなし盖し其海軍の斯く盛な

るは英國の貿易日に益盛大にして世界萬國に通商するが故に其商船と其商人とを保護せん

が爲めに斯く其海軍の盛大を致せしものなる哉將た其海軍斯く盛大なるが爲めに英國の貿

易今日の繁昌を致せしものなる哉何れを因とし何れを果とする哉に付ては已に世に學者の

議論もあり實際の適例もあることなれば暫く此に是を論ぜず兎にも角にも英國の海軍は英

國今日の富強を來せし一大原因なりと云ふべし去れども近年に至り歐洲の諸大國就中佛國

の如きは只管其海軍を〓〓して多分の國財を費し年々歳々大艦を新造する〓〓〓〓けず或

は新〓の器械を〓〓し或は無用の古艦を改造し英國に一艘を新造すれば佛國は二艘を造り

英國に八十〓の大砲を鑄れば佛國は百〓のものを製し一造一歩只管英國の右に出でんこと

を勉むるものなれば現在英國の海軍が佛國に劣るにはあらざれども其進歩の速力を比較す

れば佛國の歩は速かにして英國の歩は遲く若し此儘に十年乃至廿年を經過せば或は英の海

軍は佛の海軍の爲めに壓せられ古來海上の大王と矜りたる英人も忽ち佛人の爲めに其尊號

を剥奪さるゝの憂なしとせず古來佛國の如き歐洲大陸の諸國は平時事なき時は其接境の隣

國と陸路直に交通して商賣を營み一朝事あるに臨では陸軍を以て其國境を防禦し終始唯陸

地を以て其働作の壇塲となすが故に海軍の如きは恰も無用の長物たる姿なりし反之英國は

歐洲の極端にある掌大の島國なれば商賣戰爭其依る所は海上にあり佛國に至て通商をなす

にも海水を渡らざるを得ず羅馬の志いさあが今の英國を攻めにしも必ず海水を渡りしこと

ならん其勢自然に海運海軍の盛ならざるを得ざる仕掛なり故に中古佛國抔には未だ海軍の

備なき日に當て英國は早く已に時代相應の海軍を備へ以て海上大王の尊號を得たることな

り去れども人智の發達全世界を縮小して海國も陸國も齊しく其働作の壇塲を海上に移し商

賣するには米國に渡り土地を押領するには亞細亞に出掛け今日の世界に居て海軍の備なき

は恰も衆人が踏舞喧譟する其足元に居る跛者の如し運よく群集の爲めに踏み潰さるゝを免

かれ得たりとするもすは火事よ地震よと云ふに一歩も進むべからず又退くべからざるべし

去れば今日に於ては海軍は海國の獨有にあらずして陸國も亦盛大を競ふべく又競はざるべ

からざる事情に立至りたり是れ英國の海軍復た昔日の如く其權を專ふにすることを得ざる

第一の原因なり

英國今の在朝黨は四箇年前の大撰擧に案外の多數を得て時の執政守成黨に代り其政權を執

りし者なり世人の知る如く自由黨の大義は專ら人民同權萬國對等の唱へ止を得ざる事情わ

るにあらざれば成る可く外國を押領せず又外國の事に手を出さず戰爭抔は其最も忌む所に

して只管内國人民の幸福を增進するを以て其主眼となすが故に隨て自由黨在朝の間は軍備

抔も何となく度外に措て是を顧みざるの情状なきにあらず仮令ひ全く是を度外に措かざる

も守成黨の注意に比すれば其注意稍々薄しと云はざるを得ず故に自由黨の在朝は天下萬民

就中我日本抔の爲めには洵に此上もなき幸福なれども英國の爲めを謀り英人の名聲を思へ

ば自由黨の政策は餘り公平に過ぎ却て其國威を減ずるの憂なしとも云ひ難し已に過日佛の

軍艦が宣告もせず開戰の沙汰もなく突然福州を砲撃せし時支那人が佛人を惡むの餘り英人

に對して或は乱暴の擧動ある哉も測られざれば兼て英國より出張する亞細亞の艦隊を悉く

支那の沿海に集め以て不意の難に備ふべしとの事にて其艦隊を取調べしに悉皆舊式の腐れ

船にて物の用に立つべくとも思はれず一朝事あるに臨で迚も支那地方に在留する幾十萬の

英人を保護することは思ひも寄らず是を佛國の艦隊に比すれば其強弱戰はずして知るべき

程の有樣なれば此事を聞き傳へて英國の人心は俄に兵備の不足に驚き新聞に演説に當局者

の不注意を責めざるはなく其状恰も夜中盗賊に踏み込れて後ち始て戸締りの堅固ならざる

を知りたるものゝ如く誠に騒々敷事共なり果して如何なる手段を以て此軍備の手薄きを恢

復すべきかは目下軍人社會の一問題にして已に其取調べに着手せんとの事なれば何れ遠か

らずして其取調べの結果を世に公にする事ならん其期に臨まざれば詳細の模樣を知ること

難く且萬々其期に臨み其詳報を得るも固より小生は武人にあらざれば其利害を判斷するの

明なく仮令ひ強て是を判斷するも其明あらざれば其判斷に誤謬なきを保すべからず依て是

等の判斷は海陸の軍人に任ずべしと雖ども先つ今日まで小生が聞き得たる所にては英國は

其艦隊の仕組を一變して今後只管其力を水雷火に用るの企なりと云へり