「朝鮮革命政府の計畫」
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時事新報に掲載された「朝鮮革命政府の計畫」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
朝鮮革命政府の計畫
朝鮮國獨立黨の目的は國王陛下を補けて獨立文明の大朝鮮國と爲さんとするより外ならず
其謀主は朴泳孝、洪英植、金玉均、徐光範等の流にして從來此人々は内に國王の信任を得
ると雖とも其實金力あるにあらず又兵力あるにあらず風潮の赴く所事を成すの機會なし加
之近來大黨の益朝野に充滿するに付ては或は一身の安全も計るべからず我れより先んぜざ
れば人に先だゝるゝの機を察して力を量るに遑あらず云はゞ運を天に任せて今回の大擧に
及びたることならん事一たび發したる上は國王も斷して獨立黨の所爲を認可し大政の權柄
を獨立黨に授け月の四日より六日まで新政府は大に計畫する所ありしも支那兵の爲めに大
闕を攻められ國王を奪はれ乱民蜂起事遂に成らず獨立黨中或は殺され或は遁れ朝鮮の政權
再ひ又事大黨殘類の手に落ちたりとの事は我輩既に前日の紙上に畧説したり然るに今我輩
が接手したる朝鮮よりの來信並に難に遭て京城より歸國したる人々に就き今回革命政府が
計畫したる所の次第を詳かにするを得て更に發明する所なきにあらず此次第も朝鮮政府が
再び事大黨(寧ろ支那人)の手中に落ちたる今日に於ては聊か死兒の齢を計ふるの歎に類
するの嫌ありと雖とも亦以て今回事變の次第を詳かにするの裨益少なからざるのみならず
革命政府の本旨を知るに足るべきものなるが故に左に其概略を記す
此度京城にて事變差し起り去る四日の夜中に事大黨大方殺されて其政權を失ひ獨立黨之に
代り五日の日中には政府官吏率て交迭せり依て五日の夜より六日の夕まて獨立黨は政治の
改革を企てゝ計畫せしこと甚た多し其次第は
第一 内侍府を廢す(六日已に實行せり)内侍府は所謂宦官の本廳にして宦官は國王及び
王親の給仕、宮殿及び山稜の侍衛を掌り又烽臺史庫等はみな宦官の監守するところなり其
數凡そ二三萬人中に就きて公平廳の宦官あり百官萬民の上書建言かならず此廳を經て國王
に達し國王の諭達命令も亦此廳を經て百官萬民に達す故に其有力なること譬ふるに物なく
且つ宦官は概ねみな賄賂を貪れりこゝを以て今回此等宦官の本廳なる内侍府を廢しこれま
では宦官にあらさればこれに任する能はさりし諸官職も今後は何人にてもこれに任すべき
ことゝせりされども六日にこの命令を出して一旦は實行せしも終に永續する能はず歎すべ
きなり
第二 宮内省を設けんことを議す(未た實行に至らず)宮内省は組織全く日本の宮内省に
擬し獨立黨首と仰がれたる朴泳孝を以て宮内卿となしこれに親軍前營(近衛兵に似たり)
大將と左捕盗(警視局に似たり)大將を兼ねしめ漸次に憲兵及び警察の制を立てその式一
二日本に倣ひ專つ王室を尊崇する積りなりしといふ
第三 庶民を同等にす(已に實行せり)士農工商を問はず文武を別たす宦官にても才智な
るものは各々相當の官位を與へ門地の弊を破る積りにて已に劉鴻基(中人にて參判以上に
任ずる能はざる人)を左議政に命ずる積りなりしと云ふ但し昨年來朝鮮政府にてはこの旨
を全國に布示せしが今に至るまで其名のみにて其實なし依て此度この擧ありざれとも亦た
永續する能はず歎ずべきなり
第四 遷都を議す(但し未た國王の允可を得ず)京城と平壤とは全國施政の便貿易運輸の
利より論するに京城は遙かに平壤に及はず且つ平壤は西北境に近く似て支那及び露國の侵
入を禦くに便なるよりこの議ありしと云ふ
第五 収税の改革但し未だ細目を議するに至らず
第六 全國の丈量田畝の改税但し未だ國王の允可を得ず
第七 惠商局を廃す(六日に布告せり)朝鮮にては負商歩商相合し組合を立て之を政府よ
り監督し共に國家に忠義を盡すを名とすされとも其實負商歩商は日本の所謂博徒なれば其
弊害甚だ多く良民みなこれを恐れ惡みたれば此度其本局を廢し且つ負商及び歩商の組合を
なすを嚴禁せり組合の人數は當時八萬餘人ありて全國に行き渡ると云ふ此外支那との關係
につき議するところ甚だ多く第一に朝貢使を廢することなどの箇條もありしと云ふ畢竟す
るところ此改革は朝鮮を東洋の一獨立國となさんとせしに外ならざるなり